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リアリティショーと父親たちの星条旗

次の生き方が定まってないという生存本能的な危機感からか、連日戦争もの映画を観ていました。

色々観たんですけど、印象に残るのが

・硫黄島からの手紙
・父親たちの星条旗

いずれもクリント・イーストウッド監督によって太平洋戦争末期の硫黄島について日米両サイドの視点から描かれています。

どちらも究極の反戦映画だと思ったのですが、特に、父親たちの星条旗はエンドロールで背筋が凍る思いをしました。

詳しいあらすじは省きますが、硫黄島上陸作戦の過程で山の頂上に勝利を示す星条旗を掲げた青年達のその後の人生を描いていて、劇中に戦闘の悲惨な描写はあっても、「あくまで映画の観客として」その人生をトレースしていきます。

が、最後にその前提が覆されます。

映画の終わりでエンドロールとともに現存するフィルムが映し出され、実際の登場人物の当時の写真(笑顔)から、行軍中の和やかな写真に切り替わり、、

徐々に音楽が暗転し無音になり、戦闘機の飛ぶ風景、戦艦からの砲撃、迫撃戦、おびただしい負傷者の様子、生きてはいないだろう遺体、有り体にいえばこの世に間違いなくあった地獄の様子が淡々とスライドしていって、ああそうか自分が「映画」として観ていたものはたった75年前の現実そのものだったんだ、と怖くなりました。

登場人物の感情を追体験していた筈が、自分が観客からその場に一気に引きずり下ろされたような恐怖。

もう登場人物の感情を追うとか以前に、突き付けられたフィルムの内容に硬直するしかない。この地獄を生きた彼らの心境を、感情を、そうやすやすと理解していい筈がないんだ、ということを叩き付けられたような気がして数時間呆然としてました。

何でこの映画の感想を書く気になったかというと、件のテラスハウスの出演者(木村花さん)が亡くなった事の経緯を知ったからというのもあります。

※自分はテラスハウスは全く観ていませんので、番組を楽しんで観ていた方はここから先は読まないことをおすすめします

昔、あいのりって番組やっていた頃からあの手のリアリティショーを楽しんで観ることが全く出来なくて、それは単に自分が男性だからとか恋愛経験に疎くコミュニケーションに興味がないからと思って避けていたんですが、おそらくは人の感情のリアルな機微を外側から観て談笑する行為そのものに違和感があったんだ、ということを映画(父親たちの星条旗)で改めて分からされたというか。

件の映画の場合は、例えば登場人物の一人がPTSDを抱えたまま政府の演出(国債を売るショー)に手を貸すことに耐えきれなくなって酒に入り浸るとか、「ストーリー」として観ていれば共感する部分があるんですが、生々しい戦闘中の写真の数々(現実)でその虚構の壁をぶち壊されて、最早「ストーリー」として観るどころじゃない。

それは外側と内側を隔てる境界線が壊されてしまったから。映画の内容は現実そのものであり、「ショー」など存在しなかった。

リアリティショーは、言うなれば檻の中に入れた動物を外から安全に鑑賞している状態。檻の中でどんな物事が起きていても、檻がある限り外側でどう楽しもうが自由。

でも本来、人のリアルな感情や思いは「安全圏」でコントロールして他者が安易に理解出来るものではなくて、ただ想像することしかできない。

そしてその想像し、共感しようとする行為は、神聖で孤独で、少なくとも娯楽として消費できるものではないんじゃないかなと僕は思います。

いや、自分も虚構(フィクションショー)は大好きですけど、それはあくまで計算の上に基づいた創作であって、どんなに感情の振れ幅が大きい作品でもセーフティは掛けられていますよね。(一部制作側に悪意があるようなものもありますが)

でもリアリティショーって、台本がなくて生の感情の交流を見せて視聴者を楽しませる目的なのであれば、生放送でない限り少なくとも制作側は、感情の振れ幅が大きすぎる場面はフィルターして、それを観た人、出演者自身への影響は考えるべきだったんじゃないかと思います。

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