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【日記/37】好きな人は自分に似ている説

大昔、ブログに「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』だ、ってのはマジだ」と書いたら、

「あなたは本気で人を嫌ったり恨んだりしたことがないんですね。幸せ者ですね」といってきた人がいたので、

んまあそれはそうなんだけどー、と思った。考えるに、人が(というか私が)人を嫌いになるときには2パターンあって、1つは「考え方が気に食わん」という場合と、もう1つは「人間性がダメ」という場合である。

私は、前者の場合は「ぬおおおお」と思いつつもわりと関係を継続していきたいと思うほうで、後者の場合は、その人の存在自体を視界から消してしまう。つまり、「無関心」カテゴリのほうに入れてしまう。だから、「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』だ、ってのはマジだ」っていうのはマジでマジだと思うのですが、全然マジではないという人もいるのだろう。


……という話は置いておいて、今日は広義の意味における「好き」の話をしたい。狭義の意味での、すなわち恋愛的な意味での「好き」は事情がまた異なってくるかもしれないので、今日の話題では触れない。

私がいうまでもなくみんな知っていることだが、「好き」になる人には、自分にちょっと似ているところがある。なんとなく自分がいいそうな(いえないんだけど)ことをいったりだとか、なんとなく自分がやりそうな(できないんだけど)ことをやったりだとか、やっぱりそういうところがあると思う。

なぜそんなことを改めて日記に書いているのかというと、私の「好き」な人が、ニコニコ動画やトークイベントなどでしゃべっている様子を、最近見直したからだ。

私の「好き」な人は、しゃべっているとき、あまり表情がない。ボーッと一点を見つめて、淡々と話している。緊張しているせいなのかわからないけど、わりと顔が死んでいる。「心ここにあらず」といったかんじで、ちょっと早く帰りたそうでもある。司会役の人に、「落ち着いていますね」とか「淡々としていますね」とかコメントされている。……そう、まるで私と同じパターンなのだ。

というか、私は司会役の人が「淡々としていますね」とコメントするまで、その人のことを「淡々としている」とは一切思わなかった。客観的に見て初めて、「そうか、こういう状態を『淡々としている』っていうんだ」と思った。おそらく、自分がそうだから、「淡々としている」という状態を認識できなかったのだろう。けっこう目から鱗だった。みなさん、もし自分の「好き」な人がしゃべっている様子をテレビやニコニコ動画で目にする機会があったら、注視してみるといいです。もしかしたら、その映像と自分がしゃべっている様子とで、何かしらの共通点を見出せるかもしれないので。

おそらくだけど、「好き」な人は、自分の未来にいる。自分がいいそうな(いえないんだけど)ことをいったり、自分がやりそうな(できないんだけど)ことをやる人を、好きになる。

一方、「嫌い」な人(考え方が気に食わない人)は、自分の過去か現在にいる。自分がかつていってしまったかもしれないこと、今あえていわないでいることをわざわざいったり、自分がかつてやってしまったかもしれないこと、今あえてやらないでいることをわざわざやる人を、嫌いになる。

……そう考えると、すべてがつながっているような気がしてきて、人類愛というか、なんだかピースフルな感情がわいてきはしまいか。

今、私はハッピーでピースだ。

شكرا لك!