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【日記/11】先生、レヴィナス、かくかくしかじか。

先日、「ユダヤ人の定義不可能性」という問題についてブログに書いた。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2016/01/11/114059

私はこういうところに、やっぱりブログの素晴らしさをかんじる。リアルの世界で、私が思いつめた顔で「ユダヤ人とは……」なんて話を始めても、聞いてくれる人はまずいない。だけど広い広いインターネットの世界では、私の思いつめた「ユダヤ人とは……」を、聞いてくれる人がけっこういるのである。有料コンテンツで自分の書いたものにお金を払ってもらえるとやっぱり嬉しいし、外のメディアに寄稿というかたちで書かせてもらうのも嬉しいのだけど、こういう原始的なブログの喜びもやはり捨てがたいものがある。

ところで、私は上記のエントリのなかで内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』という本を紹介しているのだが、この本の巻末には、内田氏が師と仰ぐエマニュエル・レヴィナスへの熱い思いが語られている。内田氏は昨今ネット上でいろいろな批判も目にするが、氏の専門であるフランスの現代思想について書かれた本は、やはり面白いと思う。日本について書かれたものはちょっとハズレというか、精神論が多い。個人の意見です。

内田氏の書斎には、エマニュエル・レヴィナスから届いた1通の手紙が、額に収めて掛けてあるという。手紙には、「送って頂いたご本、残念ながら日本語が読めないのですが、きっと素晴らしいお仕事だろうと確信しています。あなたは私のことをとても精密な仕方でご理解くださっているように感じられます」と、書かれているらしい。

なるほど、私だったらこんな手紙を、自分が尊敬している師にもらったら泣いてしまう。残念ながら私が師としている人は日本人であり、何を書いて送っても「君はあれも読めていないのか、あれも観ていないのか、なんて薄い論考だ、バカか」という返答しかもらえなさそうだが、まあそれはそれ、これはこれである。

内田氏の本を読んでいると、いたるところにエマニュエル・レヴィナスが登場する。氏がフランスに行って、レヴィナスと面会し、フランス語で小難しい話を延々とされ、さっぱりわからなかったけど素晴らしい時間だった、と書いている話とか。私はそのエピソードがとても好きだ。師はいつも遠くにいて、弟子は後を追うことしかできない。

「先生もの」というのは探せばけっこうあって、東村アキコ氏の『かくかくしかじか』も、そんな先生ものの1つである。東村アキコ氏の漫画は、7割の面白い! と3割の「ああん?」でできているというのが私の個人的な評価で、エンターテインメントとして物語に強力に引き込まれつつも、魚の小骨が刺さるような違和感がいつも読後に残る。が、今回はその小骨の話は置いておく。

本作の主人公である林明子(=東村アキコ)が師である「日高先生」から受け継いだものはただ1つ、「態度」である。態度というか、姿勢ともいう。もちろんデッサンの基礎とかそういうのもあるだろうが、そういう技術的なものは師から受け継いだものとしては実はたいしたことがない。林明子が日高先生から教えられたものは、どんなときも手を休めるなという、絵に向かう際の「態度」であり、それ以外は瑣末なことなのだ。

内田氏の思考を象っているものも、おそらくレヴィナスから受け継いだある「態度」である。その態度がどんなものかは私には上手く説明できないが、技術的なことや学問の基礎などではなく、優れた師は弟子に「態度」を伝えるのである。

ちなみに、私が師から受け継いだ「態度」はどのようなものであったかというと、「壁と卵があったとしたら、常に卵の側に立たなければいけない」的な、そういうことだったような気がする。もちろん私の師は村上春樹ではない。それどころか、アンチ村上春樹の師であったので、もしこれを見られたら「君は大学院で何を学んだのだね? なぜそんな軽薄な思考しかできないのだね?」……みたいなことをいわれそうである。ああごめんなさいごめんなさい。

師はいつも遠くにいる。そして、いつもとても怖い。




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