見出し画像

【日記/44】何が嫌いかで自分を語っちゃだめなの?

ウェブ上でたまに、「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」という言い方を目にすることがあるんだけど、

私はこれ、半分賛成で、半分反対だ。

最初に賛成のほうの意を書くと、たとえばその人がブログやTwitterをやっている人だとして、「何が嫌いか」について書かれたものが70%以上とかだと、

「もう少し好きなものについて語ってみてもいいのでは?」

と、確かにちょっと思う。「何が嫌いか」について書かれたものが70%以上だと、「文句ばっかいってる人」に場合によっては見えてしまうから、それはあなたとしても本意じゃないし損なんじゃないですか、と思うからだ。

次に反対の意のほうを書くと、そこで、「何が嫌いか」について書くのは極力0%に、「何が好きか」だけで100%発言しましょう、って方向にまで話が及びそうになると、普通に、それはちょっと行き過ぎでしょ、と思う。

30%以内に納まるのであれば、「これが嫌いだった」も「これがつまんなかった」も、別にいっていいと思う。だって、日々たくさんの映画や本やゲームや思想に触れている私たちなのだから、面白いものに触れられる確率が100%なわけがない。別にマウンティングをしたいわけでも、みんなが夢中になってるもの批判するオレかっこいいをやりたいわけでもなくて、普通に、素直な気持ちで、「これ、そんな面白いかなー?」って思っちゃうことはあるでしょ。というか、「30%に納めろ」というのも私の感覚値でしかなくて、「別にアタシは『文句ばっかいってる人』って思われてもいい!」とその人が考えているなら、「何が嫌いか」発言が40%でも50%でも60%でも好きにしたらいいと思う。

あと、「何が嫌いか」を語る場合、そういう言い方はやめたほうがいいのではと私が思うのは、「◯◯を面白いっていってる奴は馬鹿」みたいに、作品批判じゃなく作品を好きな人批判になってしまっているとき。何を面白いと思うか、何を面白くないと思うかに優劣はないはずなので、自分が「これはつまらん」というのは自由だ。だけど、「これを好きな奴は感性がつまらん」というところまで話が及ぶと、それとこれとは話が別じゃないかなー、と思う。それをいうなら「これを好きな奴とは感性が合わないかもしれん」だよね、と思う。

というわけで、長い長い前置きを書いたのですが、『シン・ゴジラ』、あんまり面白くなかった……。

ただ、これは難しいことをいろいろ考えるための映画じゃなくて、純粋なエンタメなんだよ、というような評を見て、それはすごい納得した。しかし私はというと、その「純粋なエンタメ」が苦手なのだった。じゃあ観に行くなよ、と思った人がいるかもしれないけど、だってだって、あまりにも評判がいいものだから、「純粋なエンタメ」以上のものがもしかしたらあるのかなって思ったんだもの。国防の問題とかについて考えるの面白そうじゃん。私は、難しいことをいろいろと考える映画が好き。

『シン・ゴジラ』は、純粋なエンタメでした。あと、それとは別に、私は「純粋なエンタメ」を面白がる能力が著しく欠如しているので、なんとか努力によってそれを後天的に身につけられないのかみたいなことを全然ちがうところで考えた。「エンタメは面白がるのが普通でしょ」と考えている人もいるかもしれないけど、私はその「普通」を獲得しそこねたので、『エンタメを楽しむ技術』みたいな教科書がどっかに落ちてればいいのにな、と思った。


شكرا لك!