日常選択の自由 (あははん)

はい、昭和(平成元年)のCMのオマージュです。メロディが頭の中を回っているあの感覚で聞いてもらえるとありがたい。

去年(2018年)の3月ごろから瞑想に取り組んでいる。主に手を動かして手の位置に気づきを入れる手動瞑想を毎日起きてからの10分ほどを使ってやっている。
なぜ、とかどうやって、とか前提のいくつかをすっ飛ばして結論というか効果のことについて今日は話したい。

瞑想を始めてまだ1年弱だが、最近は自分が思ったことや思いに至った出来事や、自分の感情・感覚が動いた時に自分が”そうなって”いるな、”そうなりそう”だな、が分かるようになる回数が随分増えた。以前は当然そんな気づきは0回。
メタ認知的に自分の状態がどうだを観れるようになることで、ひとつは感情に流された言動をしなくなった。ふたつめは相手がいればその相手が何を望んでそうしたか、を一拍置いて考えることができるようになった。

つまり、今を知っているからこれからどうするかを選べる。選ぶのももっとも良い、だったり最も効率的、だったり効果的だったり、あるいはまだマシ、だったり。その場においての瞬間的な適正値を判断して選択することができるようになる。これが瞑想を実践してきて一番顕著に感じた自分の中の変化だ。

大凡自分の言説、行動は全て自分の選択した結果で出来上がっている。問題はその選択が意識的かそうでないかというところ。
行動の大部分は「我知らず」思って、「我知らず」感情的になったりしている。気を抜くとすぐ「我知らず」になってしまっている、なぜか?

思うにヒトという動物は省エネ志向なんだと思う。自動化できることは自動化する効率化の鬼たるヒトは必要以上に考えないように、判断しないように反応から反射に(仏教的には?)退化させているんだろう。
生きるか死ぬかの生存競争の中では生きることに全精力を出すためにそれ以外は楽しようとしているのだろう。

しかし今の世の中は生きるだけでは野生的過ぎてやっていけなくて、”社会的に”生きていくことが求められる。
そこで、自動選択できるようになった回路をわざわざバラして手動化に戻す訓練が瞑想の一つの役割なのだと自分は理解している。

電車内が混んでればうんざりして、ドアの入り口前を理由は分からないが死ぬ気でガードしている輩がいたら吹っ飛ばしたくなるし、歩きスマホしてチンタラ歩いているのがいたら蹴飛ばして端に寄せたくなる。
でもしない。なぜなら、ケンカになるから、捕まるから、モメるとめんどくさいから、やる/やらないのゼロイチの判断でなく、このネガティブだが理由のある選択を自分の意思で行うことができたときの万能感と高揚感は気づけている人への特典だと思う。

瞑想は筋トレと同じ、やればやっただけ確実に結果が出る。

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