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【読書会感想】そこから小説がはじまる

#文学を語ろう の読書会、今回の課題本イーユン・リー『理由のない場所』を直接語ることは、苦しくて、酸素が少なめで、言葉が発せられなくて、出来そうにない。

そこで、死者に語りかけるということから思い出した私の好きな作家、須賀敦子の文章の一節から近づいていけたらと思います。

須賀敦子『本に読まれて』                                「小説のはじまるところ 川端康成『山の音』」

食事がすんでも、まわりの自然がうつくしくてすぐに立つ気もせず、スウェーデンの気候のこと、あるいはイタリアでどのように日本文学が読まれているかなど話しているうちに、話題が一年まえに死んだ私の夫のことにおよんだ。
あまりに急なことだったものですから、と私はいった。
あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。
すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。
それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。

そのあとほぼ一年かけて『山の音』を翻訳するあいだも、数年後に帰国して、こんどは日本語への翻訳の仕事をするようになっても、私はあのときの川端さんの言葉が気になって、おりにふれて考えた。
「そこから小説がはじまるんです。」
なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持も知らないで、とそのときはびっくりしたが、やがてすこしずつ自分でものを書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気づいた。
ふたつの世界をつなげる『雪国』のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説の始まる時点であることに、あのとき、私は思い到らなかった。

須賀敦子がイタリアに渡り、翻訳家として日本文学をイタリア語で紹介していた頃に、ノーベル賞の受賞式をおえてイタリアに寄った川端康成と、夕食のテーブルをかこんだ時のこと。

川端康成のにらむように見つめる大きな目と、こちらの気も知らないでと思う夫を亡くした須賀敦子の真っ直ぐな深い愛情。

二人の作家の印象が強く残ると同時に、私もまた「そこから小説がはじまるんです。」という言葉がずっと気になっていました。

あとに続く須賀敦子の文章には、虚構=死者の世界を、現実=生者の世界に先行、優先させるのが川端詩学であり、まさに「小説のはじまり」なのだと書かれています。

イーユン・リーの『理由のない場所』は、自殺をした息子=死者の世界と、小説を書く母親=生者の世界が境界を超えて、互いの言葉だけを頼りにしながら会話をします。

この場所では時間の流れが止まり、生者である夫やもう一人の息子は現れません。

生者の世界にいるはずの母親が、限りなく死者の世界に近い場所にいて、まるで、トンネルの先が行き止まりで閉じ込められてしまっているかのようです。

でも、死者に語りかけるこの場所が「小説のはじまり」であるとしたら、時間が再び動き出し、喪失を抱きながらもトンネルを抜けたその先に、新たな物語が待っている。

そう強く信じて、私はイーユン・リーの次の作品を待ちたいと思います。



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