詩編137編について

‭ まずは、聖書を開いて。

詩編 137:1-9 新共同訳‬

[1] バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。 [2] 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 [3] わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。 [4] どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。 [5] エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。 [6] わたしの舌は上顎にはり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら もしも、エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら。 [7] 主よ、覚えていてください エドムの子らを エルサレムのあの日を 彼らがこう言ったのを 「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」 [8] 娘バビロンよ、破壊者よ いかに幸いなことか お前がわたしたちにした仕打ちを お前に仕返す者 [9] お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。

詩編 137:1-9 バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚にした民が 歌をうたえと言うから わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。 どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。 エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。 わたしの舌は上顎 | Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳) | Download The Bible App Now バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 わたしたちを捕囚 bible.com

 詩編の多くは、ダビデのものとされている。
 しかし、この歌から詩編がまとまったのは、バビロン捕囚まで時代が下ってしまう。
 あるいは、詩編全体はモーセ五書の構造でまとめられている、ともいう。
 日本の歌は、57577だが、ヘブライ詩は「並行法」という修辞、構造がある。(必ずしも全てが並行法であるとは限らない。また、イザヤ書などの預言書も修辞が用いられているが、私の学力では分からない。原文を直訳で味わうことはできても修辞、構造を説明できない。)
 それは、一文と二文が、対立あるいは同義の言葉、観念が続いていく(同義的並行法、対立的並行法などと言われたりする。)。
 最後に前半と後半もまた「並行」されていて、最も伝えたいことは「中心」に位置している。
 のような感じで説明される。

 したがって、詩編137は、4•5節が中心になる。
 「[4] どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。 [5] エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。」
 どうやらこの詩人は、異教の地で神である主とエルサレムを思っている。
 私はどこから来てどこに行くのだろう?

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