赦された罪人
洗礼は過去現在未来の罪を赦す
私はそれで救われた
私は罪人であるまま神に赦された
この「赦された」という感覚が私には大きい。
だからもう罪を犯したくない
真っ当な人生を送りたい
これを予定説で救われた側だと説明されるのと
救われたのだから聖化していきなさいと説明されるのでは違ってくる。
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予定説は、他力的だが
聖化は、自力的だ。
過去の罪はもう取り返しがつかない。
常に心に引っかかるのは罪人だということだ。
現在そして未来は、罪人であっても洗礼によって赦されている。
ならばもう罪は犯さないようにする。
救わられた神に対して命を捧げる。
それを聖化というのだ。
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私は伝道に駆り立てられている
一人でも多く罪から救い出し福音に与って欲しい
だから、逆に
「あなたは罪人だから悔い改めなさい」
とは言わない
私自身が罪人だから神の方から赦して下さったという事実に目覚めて欲しい
この世の中で過ちや失敗をしない人はいないが誰が誰を赦すのだろうか?
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自分で自分を許せる人は強い。
何にも頼らない人は強い。
自分で自分の機嫌をとれればいいが、私たちはそんなに強くない。
だから誰でも何かに頼っている。
私の場合は神だった。
そしてそれは神しかいないと信じている
その目にも見えないしほとんど沈黙している神が何の役に立つかと言えば
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見えないし沈黙しているからこそ
そのかすかにささやく声(列王記上19:12)に
私たちは救われる
私たちは正義のためには大声で主張するだろう
しかし、見えない神の正しさは長い沈黙が極まる時に「かすかにささやく声」で語りかけるのだ。
私たちはあの洗礼の時を忘れない
神に赦されたのだ
長い沈黙の後、神は心にいてくださる。
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