『荒地』を愛でる「火の説教」 9
T.Sエリオットは、『荒地』を第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発の前、すなわち、その間に発表している。
彼らにとって第一次世界大戦は、不毛な戦いであったことの反省に満ちていただろう。
『荒地』は、それを負って書かれているのだろう。
しかし、彼らの時代には、反ユダヤ的なものは残っている、と読んだことがある。
ヒトラーのように、優生学という似非科学を用いて、反ユダヤ主義を駆り立てることはなくても
前回「優生学」を連想させる人物を出し、ここでは、俗っぽいフランス語という明らかな差別感情を詩にしている。
また、性的なイメージは続いている。
私たちは、エリオットを糾弾できるだろう。
しかし、差別語を控えても差別意識を意識しても
どこかで自ら罪に目がゆくだろう。
私は、少なからず差別をしているであろう意識を持っている。
罪とは「関係性の齟齬」であると牧師に聞いた。
それはすなわち人間社会にいるだけで私たちは罪を必ず侵しているのである。
私は傷つき、私は傷つけている。
しかし、それを超克しなければならない。
そこで私たちはイエス・キリストを見出だす。
それらの罪を負って死にたまうのが、イエス・キリストである。
私たちは、反ユダヤ主義的なものを簡単に打ち立てる。
エリオットのように、形容のために、俗悪なフランス語と言うかもしれない。
しかし、それらを制限したら言葉の豊かさが貧弱になる。
聖書は、「規定の病」という婉曲表現をしているが、聖書の初見者にとっては何を言っているのかが分からない。
そこで口語訳聖書などを参考されたいと言うしかない。
婉曲表現と言葉の貧困は、実は表裏一体なのかもしれない。
エリオットのように露悪的であることもまた罪人の性なのではないか?
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