歌は世につれ、世は歌につれ

日本のキリスト教会(プロテスタント)は、知識層に受け入れられたとよくいう。
例えば、医師や看護師あるいは学校の先生など比較的知識がある者たちが享受していったという。
(そういう点では新興宗教(外来宗教)はどれも似たものか?)

しかし、その反対に、カトリックの来日しているフィリピン人などは共同体意識を強く持っていたりする。
カトリックの暦で熱心に祈る姿を見たことがある。
しかし、彼女たちは、定められた祈りを詠唱しているのだ。

私は、今回、カトリックの祈りを引用した。その定型の祈りは、日本基督教団ではしない。しかし、ユニバーサルデザインとして、カトリックの祈りもまたエキュメニカル的動機で用いている。
 そして、私はその祈りがいいと思っている。(個人的な好みなので信仰とはさほど関係がない)

 しかし、教義として彼女に罪を負わせるのはいけない。
 私たちはイエス・キリストのみに罪を負わせなければならない。何故なら彼が生け贄として至高であるからだ。
 イエス・キリストとは、人となられた神であるから神が神のために自らを捧げたのだ。
 矛盾ではない、これが信仰だ。
 これが分からなければキリスト教徒がいう信仰は分からないかもしれない。

 愛は残酷だ。
 しかし、それが神の御心なのだから計り知れない。
 私たちのために神御自身が生け贄になりたまうのだ。

 私というキリスト教徒を知った人たちが私の信仰から聖書を「前提」になることが理想だ。教養として知って欲しいのではなく私という存在の拠り所を知って欲しいのだ。
 最悪、死後評価も見据えて、作品で何かをなしたい。
 たんたんと歌を詠んでいくしか私には未来がない。

 歌は世につれ、世は歌につれ。

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