東雲うみは女神である、などとおっさんが宣うドン引き必至の話
趣味は読書です、などと口にするのは些か面倒を伴うのは、多くの読書子の首肯するところだろう。何しろ市民権を失った。ましてや活字中毒者の域に達してしまうと、もはや変態を見る目で警戒されかねない。筒井康隆の『最後の喫煙者』を思い出す。
この人、活字の本を読むんだって。
えー?本って、あの文字ばっかりの?漫画じゃないの?
違う違う。正真正銘、字ばっかりらしいよ・・・。
うわ。剣呑剣呑。
もはや社会不適合者扱いである。
大型書店は「本を探しに行く所」かと思ったら、雑貨を見る序でに暇を潰す散歩道らしい事に気付いて愕然としたりする。スペース取り過ぎなんだよ雑貨!と思って家人に言ったら本がいらん!と一蹴された。
就職の面接で趣味を聞かれたりすると、一瞬で白けた空気が室内に漂う。
「趣味は・・・読書?へー」
「はい」
「ふーん・・・何か役に立つの?」
「釣りが趣味の人は魚の漁獲が目的ではないと思いますが」
鼻白み、途端に面倒くさそうな態度を露わにする面接官。
「ゴルフは何かの役に立つんですか?」
「判った判った。座右の書っていうの?教えて」
「それは座右の銘ですね。この場合枕頭の書の事ですか?」
「(一瞬カッとし、睨みつける)そうだよ!判るだろそんくらい」
「有りません。その時に読んでいるのが枕頭の書だし、一冊を骨まで舐り尽くす訳ではないので」
「もういい帰れ」
私は何も悪くない。
また読書家にとっても、世間がいかに活字を忌避するか理解出来ない。椎名誠著『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』での目黒考二じゃないが、活字中毒者というのは「文字を読む」事に一種病的なまでに耽溺するものであり、手元に何も無ければ看板を、看板が無ければ缶コーヒーの成分表まで隅々まで読まずにいられない。「おい、甘いと思ったらアスパルテーム入ってるよ!」などと嬉々として報告したりする。
異常者を見る目で周囲との距離感が増したりする。
私が地獄の30年ローンで家を建てた時、まず力説したのが読書スペースと、作り付けの本棚の確保であり、家人と大いに揉めたものだ。曰く、「そんな物を作るなら収納スペースを増やせ!」
「服なんて一度に一着しか着ないじゃないか」
「本も一度に一冊しか読まないだろ」
「アホか。読み止しが10冊以上あるわい」
家人どころか、仲裁に入る建築士までが私を異星の外骨格生命体を見る目になった。
私は何も悪くない。
新築された我が家に引っ越す時にも、それまでのアパート生活で1室を埋め尽くしていたダンボール箱を開封し、本棚が足りない事が判明すると、建築士は私の視界から消えた。一方の家人はこれ以上本を購入する事を固く固く禁じた。書棚から溢れる本は処分する事を誓わせられ、私は涙で枕を濡らしながら、一週間以上掛けて選抜したものだ。
どう考えても今後の一生で一冊も本を買わない人生など、私の量子論的平行宇宙の全てを探しても存在し得ない。
已むを得ず、まず購入したのがKindle WhitePaperであった。これならアカウントの続く限り、何万冊でも増やすことが出来る。紙の福音である。しかもSDGsだ。しやらくせぇ。
以後、私は電子化されていない何人かの作家の場合を除き、ほぼペーパーレス化を果たしている。
しかし。
写真集だとそうはいかない。
私は最近になって東雲うみなどという恵体の女神の存在を知ってしまい、どうにもこうにも推さざるを得ない精神状態に陥っている。
あの、宮沢りえの『Santa Fe』でさえスルーした私がだ。
とある日、私の右手人差し指が私の制御下を離れ、ポチっとなと光の速さで発注してしまった。
そこから数日続いた地獄の日々よ。うっかり買ったは良いが、かみさんは専業主婦。私は休業中(休業してる身で写真集など買ってる場合か、との非難は甘んじて受け入れる)。ほぼほぼ付かず離れず過ごしているのだ。
どう受け取ったものか。誤魔化しきれるのか。うっかり見付かった日には、我が家はエアコン要らずになるまで冷え切る事だろう。私の心の平安の為に、それは避けたい。
幸い、私の荷物は家人に気付かれる事無く宅配ボックスに収まり(居留守を使った)、深夜にこっそりと回収した。
イーサン・ハントも裸足で逃げ出す危険極まりないミッションであった。寿命が3分は縮んだよ。
さて、次は開封の儀なのだが、これまたうっかり開封してしまえばいつどこで破滅の日を迎えるか判ったものではない。家人はかみさんだけではない。年頃かつ思春期真っ只中の中学生の娘がおる。もはや我が家にあって開封するなぞプルトニウムの取り扱いより慎重を要する。
一瞬芽生えたおっさんのスケベ心の為に、家庭崩壊の危機を迎えている。私は何故購入したのだろうか。
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