これだからインターネットはやめられない~執念編~

私はインターネットの悪い遊び場にだいたい居て育った人間だから、悪意によって盛り上げられている「祭り」を楽しむ性格になっている。著名人がネット民の配慮のない言動を批判し、戒めているのを見ると無性に反感が湧き起こる。私自身は彼等に対して何か言ったわけではないのに、黙れ黙れとどこかで思っている。相手が私の応援している人であっても、やはり同じことを思うのだから、これはもう私の素地であるとしか言いようがない。もちろん私は、あまりに馬鹿げていて笑えもしないこと、単なる誹謗中傷、言っても良い空気ができているから流れに乗って放言するという態度が好きではないため、ただ露悪に染まった人間でもないと自己弁護する。

先日、仲間から教えてもらったブログ記事で、なかなか不気味でもあり面白いものがあった。ここではURLを埋め込むだけにする(追記:普通に裸体の画像が飛び出します。今そういう気分になれない人は絶対に閲覧しないで下さい。100%その場で(ry 反射的にURLをクリックしてしまう方は注意です。私は責任とりません)
(後述するように閲覧には一応注意が必要かもしれない)。私は「某~」とかいうぼかした言い方を見ると、はっきり言えよと思って苛々するため、本来ならここでもブログ名や、題材にされている人物の名を記すべきなのだが、今回に限ってはやらない。それは対象としているものがアダルトビデオ関連であり、普段の私らしくないことを私自身がためらっているからだ。それから対象の人物の経歴が並大抵のものではないため、あまり露骨に触れない方が良い気もするのだ。それならばこんな記事など書かなければ良いのだが、そこはインターネッツの毒にやられた人間である私の一面が許さない。私の心は純情で、そして双面だ。
記事の内容がどんなであるかについては、ブログを見ればわかることだ。その「女優」は監督からの強要を受けたとして告発したことで一度注目を集めた人物だった。それは2016年12月以降に起きた騒動で、私もかすかにそんな内容の記事を見た覚えがある。この「女優」のそれ以前、その後(こちらの方が凄い)が、ただならぬ闇を抱えており、あまりに不審であるとして、ブログ筆者は調べられるだけの綿密な調査の結果を五回の記事に分けて記している。要するに「女優」とともに行動している人物の道徳が異常で、それに振り回された過程が凄まじいのだ。

一連の記事を読んで思うのは、筆者がかなり周到な調査をしているということだ。本人から直接聞いたのではないかと思うほどだ。筆者はあくまでも「調査を元にした推測」と言っており、どこかに間違いがあるかもしれないと断っている。本人からの証言ということを私は書いたが、それはあながち間違いではなく、筆者がいうには「女優」は自ら2ちゃんねるにて書き込んだこともあったそうだ。特に興味深く思ったのは、「女優」が2013年に立ち上げた「ソープランドの面接行ってきた」というスレッドだ。2013年というと、「女優」の名が知られる何もかも前の段階であり、物語でいうなら冒頭に位置する。もちろんこのスレッドを立てた時点の>>1は、自分が後にアダルトビデオに出演するなんていう事実を言えるわけもない。このスレッドはマジキチ速報でまとめられており、2024年も見ることができる。マジキチ速報の管理人も、昔まとめた記事に関する五年以上も後のことを報告するわけもない。元スレに書き込んでいる>>1以外の住民も、まとめブログでコメントしている連中も、その後のことは何も知らない。自分が女性だと主張する者は確定でおっさん扱いされるのが2ちゃんねるの掟だ。>>1は自分が女性であることの決定的な証拠をうpしていないため、最後まで「釣り」の可能性を残したままだ。
ではなぜブログ記事の筆者は、このスレッドが「女優」の経歴と関係していることを突き止めたのだろう。一体どの段階で気づいたのか。確かに筆者の説明を信じるなら、スレッドで語られていることがその通りであると言える。それにしても本当に間違いないと、どうやって断定できるのだろう。このブログは大変興味深いが、読者に再現性が与えられていない。つまり、誰でも同じものを参照できるような出典がほとんど記されていないのだ。そこが筆者の独自調査ぶりで、研究者の態度として見ると非常に残念だ。
もしかするとブログ筆者は、2013年当時このスレッドを見たことがあるのではないか。というのは私自身、ブログを読んでいてこのスレタイ(スレッドの題名)が目に飛び込んだ時、思わぬ既視感に囚われたからだ。おそらくだが、私は2013年にこのスレッドをマジキチ速報で見たことがある。そしてその記憶は十年経っても曖昧に残っているものだったのだ。つまりそれくらい記憶に残ることだったのだ。それはブログ筆者にとっても同様で、「女優」の経歴を調べるうちに、遠い記憶から浮き上がるものがあったのではないか。とはいえインターネットという広い世界で、かつて見たことのある記事を掘り起こすことがどんなに大変かということを考えると、妙な気もする。私もかつて見たまとめスレで、時折思い出すものがいくつかあるが、実際にそれを再び発見できるかというと、かなりの割合でできないのだ。あじゃじゃしたーなどがそうだが、当時のまとめサイトは少なからず閉鎖されており、ほぼ消滅したも同然のスレッドは多いに違いない。そういう点ではマジキチ速報は、現役のまとめサイトだから心強い。

ブログ記事で、「女優」の現在の消息は不明だとされている。これもはっきりとは書かれていないのでわからないが、多分2021年には「女優」のその後はわからなくなっている。公式ウェブサイトやTwitterアカウントは既に閉鎖されているようだ。問題の男性とは現在も関係が続いているのかどうか、まったく不明のままブログ記事は完結している。
ところで私はYouTubeで「女優」の公式チャンネルらしきものを見つけた。まったくの外部の人間によるチャンネルとも考えにくく、公開されている最も古い動画は2017年だ。ブログ記事を読んだ上で判断するなら、チャンネルの主は「女優」とともに行動していた男性なのだろう。無論、YouTubeなので極端に性的な映像は公開されていない。2017年以来、断続的に新しい動画がアップロードされている。奇妙なのは、最も新しい動画が2024年1月だということだ。ということは「女優」は現在も細々と活動しており、男性とは今も行動をともにしているのだろうか。しかし動画を見ていると、奇妙に思うことがある。一つの動画の中で、「女優」の長かった髪が明らかに短くなっているのだ。これは私の推測だが、男性はもう「女優」とは離れており、それでもかつての素材を切り貼りして新着動画をつくり、空想の関係を作り上げているのではないか。これはブログ筆者も書いていないので(知らないのか、知っていてあえて無視したのか)、私自身が調べて知ったことだ。YouTubeの動画を見ることで、「女優」をめぐる謎はさらに深まった。


インターネット上で特定の誰かの言動を監視することを意味する「ヲチ」と言葉があるように、人の他人への関心というのは時として異様なものになる。特に観察対象が異性になると過激になるのではないか。先のブログの筆者はアダルトビデオ関連で、興味深い記事を書いた。その活動は、2022年8月のたった一ヶ月に集中している。ブログ筆者は一ヶ月に13件の記事を投稿して、その後沈黙している。厳密な期間は8月14日から18日までで、これはそこそこ過密な頻度だ。この調子で独自の調査をし続けてくれたらさらに面白いことになりそうなのだが、それは無理そうだ。ブログ筆者は、自己紹介の記事で「もうかなり歳くってしまったジジイ」だと自称している。私はこの記事では、男性の女性に対する執念ということに限定して書いている。しかし世の中には女性の男性に対する執念だってたくさんある。男女ともに際立った事象を書いて、比較などしたら面白いかもしれないが、こんなことのために努力していたらミイラ取りがミイラになるだろう。

そこそこ年齢がいっている人間の、誰かに情熱を傾けているブログとして思い当たるものがもう一つある。それは「甲斐智枝美 思い出日記」というブログだ。これも筆者は初老の男性を名乗っている。
甲斐智枝美とは80年代のアイドルで、特に有名というわけではない。これといったヒット曲もない。特筆すべきは、ヌード写真集が発売されたことと、芸能界を引退してそれなりの期間が経ってから自殺していることだ。こうした経歴を総合してとやかく言うと不謹慎なのだが、どうしても転落というか悲劇といった言葉を連想してしまう。もしアイドル、歌手として売れていたなら、まったく別の道があったことは確実だっただろう。それにしても、こんなことを思うのには、甲斐智枝美ブログの筆者の語りのせいでもある。
筆者は甲斐智枝美のデビュー当初からのファンだったらしい。だから甲斐智枝美のヌード写真集が発売されたことも当時から知っていて、かなりのショックを受けたことを述懐している。ブログ筆者はよく「脱がされる」という言葉を用いて、そこに悲哀を含ませているように感じる。ただそれは純粋な憐れみではなく、かなり邪な興味が添えられている。悲劇に欲情しているとしか言いようがないのだ。
そのこと自体が悪いのかというと、私は非難できない。アイドルとして成長してほしいという気持ちも本当だっただろうし、それはそれとして裸体が見られるものなら良いという欲求があってもおかしくはない。そうした衝動をネットに公開すのは間違いではない(ネットとはそういう場所だとも思う)。そもそも憐れむことに純粋なものが本当にあるのだろうか。「可愛そうだた惚れた」という言葉の通りではないのか。ブログ筆者はすさまじいことに2015年12月から今日にいたるまで記事を更新し続けている。私が圧倒されているのはこの点だ。いかにも十年前に更新が途絶えていそうな題材、筆者の年齢だというのに未だに勢いが持続しているのだから。
ブログでは当時の雑誌の切り抜きが多数掲載されている。雑誌編集者によるアイドルへのインタビュー・コーナーが多く、記載されているやりとりを見ると驚くものばかりだ。どの記事に記載されていたか特定できないのだが、「じゃあヌードは出るんだ?」という質問がなされており、甲斐智枝美も内心はどうか知らないが平然と「そうだと思うんです」と答えている。他にも「地黒のチクビは黒いって、これは人類始まって以来のキマリなんだよ(なんのこっちゃ)」という発言も見られる。これを読んでいる方は知らずに済んだか、あるいは憶えていないかもしれないが、私は今更はんつ遠藤のおじさん構文を思い出してしまった。あの騒動が起きていた頃の私は、自分の文章もまたはんつ遠藤なみなのではないかとして、少なからず不安になったものだ。おそらくだが、文章に思い切りの良さがなかったり、曖昧な物言いを排除できないでいると、人はどんどん「おじさん構文」になると思う。自分の書いたことを自分でツッコむような銀魂女子しぐさをするようでは生きている価値がない(おい)。とにかくこういうことは駄目だ。なぜここまで必死に否定するかというと、私も昔は自分の書いているものに自信がなくセルフツッコミをしていたからだ。そのことをTwitterで告白すると、うみねこという人物から「銀魂女子かな」と言われて横転、それ以来顔がない。
甲斐智枝美で一番ヒットした曲といえば、「Si! Si! C!」なのだろう。この曲の歌詞はなかなかのものだ。B面に収録されている「ピチピチ・ビーチタウン」はもっとすごい。もちろん本人の作詞ではなく、歌わされているものだ。
今の時代にあんまりな発言満載のインタビューが掲載されたら、酷すぎて逆に崇められるかもしれない。80年代にはこういう明け透けな言葉が随分多かっただろうし、いろいろ資料を見ているとやはりそうだとしか思えない。なんというか、全体的に粗いのだ。こんな荒波に育てられては、そういう形に歪んでも致し方ないだろう。そういう点でも、私は当時の人達、特にブログの筆者を責める気にはなれない。


私はここまでにいくつかのブログ記事のURLを埋め込んだ。「女優」のくだりでは、具体的な名前も記さなかった。URLを踏んで読んでもらうことを前提にした書きぶりだ。そうして五年や十年が経ってからのことを考えるとどうか。そもそも当家「欄干公式見解」が存続しているかもわからないし、残っていたとして読まれない可能性も大いにある。問題はそこではなく、この記事で埋め込んだURLがことごとく死んでいるかもしれないという点にある。ジオシティーズのサービスが終了したことは、アレクサンドリア図書館が焼失したことに等しいくらい、多大なる損失をインターネット与えた。これは時を経るごとに強く感じる。だいたい検索エンジンの精度も悪くならない一方で、十年以上前は興味のあるキーワードで検索すれば、正体不明の読み応えのあるブログやらウェブサイトに簡単にありつけたものだが、今やアフィリエイトやECサイトの跳梁跋扈で何も表示されていないも同然だ。
ここまでに紹介したブログが明日にも存続していると、どうして断言できるだろう。いつ消えるかわからないのだ。まさかブログを書いた本人にお願いするわけにもいかない。お願いして承諾を得たところで、結局は本人の処置次第だ。いくらでも反故にできる。こちらにできることといえば、Internet Archiveなどを利用してせっせと魚拓をとることくらいしかない。こういう時に私はいつもInternet Archiveが消えたらどうなるんだよと思うが、こんなことを言い出したらインターネットの存在自体が怪しくなるからこれ以上考えない。しかしブログの魚拓は非常に億劫だ。管理人がマメな人間で、毎日更新でもしていたら、こちらの作業は膨大だ。そういう努力を厭わなかったから、ひょっこりひょうたん島のシナリオが消失せずに済んだのだ。私はこれまでにインターネットにどれだけ裏切られてきたかわからないが、それでもまだ信じている節がある。多分明日もこの記事は残っているだろうと根拠のない信仰がある。本当に気に入っているものがあるなら、可能な限り残さないといつ無くなるかわからないのがインターネットの怖いところだ。私が心の友と呼んでいる人物と出会えたのは、まさに友が運営しているブログによってだったのだが、ある時急に記事が非公開になるという事件があり、その時の私の衝撃は相当なものだった。本人に確かめたところ個人的な事情だった。本人がそういう意思なら、こちらも強く言えるわけがなく、記事が消えたブログを虚無の気持ちで眺めるしかなかった。その後、記事がどういうわけか復活した時、私は本当に祝杯をあげた。そういえば心の友はなぜ非公開にした記事を再公開したのだろう。この前会ったときに訊くつもりだったが忘れていた。
ちなみに「欄干公式見解」は、私が生きている限り、インターネットが残っている限り意地でも残すつもりだ。

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