ケモ耳が理解できない

悪いけど、ちょっとオエッてなる。リアルのケモ耳にはならないよ、あくまで二次元の話。そのキャラは本当にケモ耳が欲しかったんだろうか? 自分の好みをキャラに押しつけて楽しいのだろうか。まあ楽しいのだろうね。

……吐き気を催すというのはさすがに嘘だが、私はケモ耳に対する理解力がない。人間の形をしているのなら人間の耳がついていれば良い、それ以上の装飾は不要だという考えだ。美少女の頭に猫耳がついているのを見てもまず良いと思えない。ゼロどころかマイナスになりかねない。その耳が無ければどんなに良かったかと残念がることも少なくない。

以前、ピクシブでお気に入り登録した絵がいつの間にか削除されている光景を、「大切なものだったはずなのに思い出せないという経験ができる貴重な場」と解釈した人をTwitterで見たが、本当に大切なものをなぜ自分のものとしなかったのかという疑問がつく。私はTwitterで、リツイートやいいねなどをほぼしない代わりに、タイムラインの人達が流してくれる絵の中から気に入ったものを保存し続けている。これが確実なやり方だ。時に面倒だったり時間がなかったりで、後回しにしている内に忘れたり投稿者が即刻削除したりといった遺漏はあるとはいえ、いつのまにかごっそり削除されて記憶も何もないなんてことにはならない。
私の日々の作業はどうでもいいとして、タイムラインに流れている絵を見て、「これは……神絵師!!」と琴線に触れたのも束の間、人間ではない耳が頭から生えているのを見ると急に気分が「無」になることは実に不思議だ。ケモ耳があるという一点で、私にとってその絵は保存対象から外れるのだ。私のフォロー/フォロワーはウマ娘のイラストをリツイートすることが多く、この数年間ウマ娘のファンアートを見ない日はない。そうなると私も慣れたもので、名前は知らないのに「ああウマ娘ね」と即断して通り過ぎることができるから、未練も脳内処理もない。それにしても私はなぜここまでケモ耳を良くはない意味での絶大な判断基準としているのか。
ケモ耳であるからには、耳が四つついていることになるじゃないかという野暮な指摘をしたいのではない。耳が四つ云々と言うのなら、そもそも人間の姿をしている動物に関係ない耳があること自体がおかしいのだ。私は根本的なところで躓いている。

ケモ耳に対して抱く違和感として、私は2021年8月に以下のような文章を残している。少し長いし、何を言っているんだと思う箇所もあるが、当時から今日にいたるまでの私の思考を読み取るのに適切なテキストだ。

 私は、人間の形をした生き物から、人間ではない耳が生えている姿を許しません。エルフ耳はまだ大丈夫です。エルフ耳は、ちゃんと人間の耳の位置と同じところにある場合がほとんどなのですから。
 そういうわけで私は「ウマ娘」を一向に好むことができていないのです。その位置に馬の耳があるようだと、もう一つ人間の耳があることになりはしないかと、思わずにはいられない。(中略)「ウマ娘」は好ましいキャラクターで勢揃いだということはわかりますし、二次創作で良い絵を描いている人が続々と現れているのですが、「これで馬の耳が無かったら……」と根本的な否定をせずにはいられない。

 私はゴッホだから、耳は概ね嫌いなんです。差し支えなければ削ぎ落してもいい。しかし差支えがあるから耳はあります。
 あまり肯定的なことは書けなかったけど、「ウマ」で「娘」という着想は独創性があって悪くありません。私はとにかく猫に対してずっと無関心です。決して嫌いではありません。それにしても、人間は猫好きになると、人類全体が猫を愛していると思い込むようになるのではないでしょうか。それだけ猫好きが多いということなのでしょう。もし猫の価値がコオロギと同等だった場合、こんなことにはなっていない。「コオロギ娘」を作った人がいたとして、その人を手放しで応援できますか。私は、何かを成し遂げようとしている行動や気概を応援することはできるでしょう。でも、「コウロギ娘」を応援することは多分できない。
 なんだって猫耳とか猫っぽい少女とかがこんなに溢れているのだろう。猫が好きであるということが多数派だからでしょう。私だって、猫を悪くないとは思うけど、琴線に触れることはまったくない。さっき「コオロギ娘」とかいう極端なものを出したけど、そうだな、「この人、またワニ娘を描いてるよ」という気分に近いかな。これもなんだか違う気がする。とにかく、「耳」というものに、人類は心惹かれるらしい。猫耳はその中でも最も価値が高いらしい。しかし私にとって、猫耳やネコ娘というのは「特殊な趣味」でしかない。なぜ私は動物の「耳」に惹かれないように作られたのだろう。

急にゴッホを名乗っているくらいには錯乱しているし、「コオロギ娘」を引き合いに出すのはあまりクリティカルではない。耳が四つあるじゃないかという野暮な指摘をしているのは、自分の主張に説得力を加えたいという苦し紛れだった。以上の文章を書いたきっかけは、自分のお気に入りのキャラクター(ソフィー・トワイライト)のファンイラストをよく描く人がいて、よくTwitterアカウントを見ていたのだが、ある時からそのキャラクターに猫耳をつけることが常態化したことによる不満だった。
私が言いたかったのは、かわいらしいキャラクターに当然のごとく猫耳をつけることへの疑問だ。猫耳をつけることもまた特殊な趣味に他ならないのではないか。猫耳を描く人は、自分が特殊なことをしている認識がなく、それを鑑賞する人も自分が特殊な状態のものを見ているという自覚がない、と私は思う。それほど猫耳というのは、多くの人にとって邪魔にならない、あるに越したことはない装飾物になっている。その素通り具合を私は奇妙に思っているのだ。ケモ耳だって多くの「性癖」の一つであって、特に好きではない人もいる。それにしてもケモ耳の人気は高く、もはや一つジャンルだと認識できないほどには当たり前になりすぎているのではないか。
例えばまとめサイトでは、「面白い画像を貼るスレ」という記事が頻繁にまとめられる。そこでは多くのおもしろ画像が新旧まとめて連続する。十年以上前の私はそういった画像を見て素直に笑っていたものだ。しかしその手のおもしろ画像スレでは、必ずと言っていいほど「猫ゾーン」が挿まれていた。私はその度に笑いのレベルが甘くなっていると感じたものだ。それは「可愛い」が優先した面白さであって、笑いとしては別の領域にあるとしか思えなかった。(「おもしろ画像スレ」には確かに猫ゾーンがあったはずとその手の記事を確認しているが、意外と見つからない。もしかすると私の捏造記憶だったかもしれない。トトロの実在を主張するしか能がない人間になっている。)

猫耳も好きじゃないし、猫の面白い画像を見てもあまり笑えない。ということは私は猫が嫌いだというのか。実際には嫌いとまではいかないが決して好きでもないというのが正解だ。猫どころか動物自体そこまで好きではない。時おり犬派か猫派か訊かれることがあるが、答えはどちらでもないになる。動物に対する無関心は幼少期にまで遡ることができ、幼稚園生の時に動物園へ行っても「つまらない」「帰りたい」というのが基本的な感想だった。動物で好きなのは鳥や魚くらいのもので、ここでも私が耳の突出していない存在を求めていることがわかる。
私の動物への無関心は、何が淵源となっているのだろうか。幼少期に動物が飼えない環境に居たことが大きいのではないか(後年、ベランダに猫が寄り付くようになって、父親が飼育の意向を示していたことがあるが、反対するのは子供である私の方だった)。飼えない状況で動物への関心が高まらなかったのは、私があらゆるものに警戒しやすい人間だったからだろう。動物園に行かされて即刻帰宅を願ったのも、周りの幼児たちと居るのが嫌だったということと絡んでいる気がする。私は制御不能なものが苦手で、幼稚園児のような野蛮人はその最たる例だ。一応は言葉が通じる幼児ですら対応が難しいのだから、動物は更なる難物に決っている。どうもこれが私の動物への無関心に繋がっている気がする。鳥や魚を許しているのは、鳥は近寄っても飛び去るだけだし、魚は水槽に入れておけばこちらに干渉することはないという、没交渉が決め手となっているからだ。それに鳥も魚も基本的に小さいから、害が少ないように感じる。
というわけで私は、世の中の猫および猫耳の扱いを見て、「猫は当然良いに決っているという思い込み」を感じてしまうのだ。

反例

あらゆる趣味人の中でも、ケモナーには一筋縄ではいかない階層がある。それはどれだけ獣に近い状態を好むかという話で、究極は獣そのものとなる。私はというと全部が駄目だ。ただし生粋のケモナーには畏敬の念を抱いている。理解の範囲外であることで、何か凄い存在に見えているようだ。私がどんぷく先生を私淑しているのはそのためだ(どんぷく先生の凄さは言語能力にこそあるのだが)。
私がケモ度全般を好まない。とにかくケモ的な耳と尻尾がついていればそれまでだ。そのケモ的存在が限りなく獣に近づいた二足歩行になっても話は同じで、ただの獣になってもやはり変らない。動物自体をそこまで好んでいないのだから仕方のないことだ。

しかしそんな私でも、ケモ的キャラクターを好んだ例外があったではないかと、自分自身から追及されている。数少ない事例を今から見当する。

猫娘

もちろん『ゲゲゲの鬼太郎』の猫娘を指している。さらに限定すると、5期(2007年~2009年)の猫娘だ。アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターデザインを概観すると、猫娘の変貌は著しく、5期では急激に当世風の容貌となった。とはいえ6期(2018年~2020年)の猫娘と比較すると、まだ化け猫らしかったと思えるのだが。
私が猫娘に興味をもつことができたのは単純で、猫耳が頭部になかったからだ。歴代の猫娘を見ても、猫娘にはケモ耳要素がなく、結んでいるリボンが猫の耳らしくなっているだけだ。耳が若干とがっているという特徴はあるが、これは私にとってはセーフ判定だ。そもそもお前は猫に無関心だったのではないかという指摘が入るかもしれないが、猫娘は普通の猫ではなく、あくまでも妖怪というカテゴリーに位置付けられるから、実在の猫と切り離すことが可能だったのだろう。

なぜ猫娘は猫耳をもたなかったのか。もしかすると『ゲゲゲの鬼太郎』が発表された時代には猫耳なる要素が確立していなかったのではないか。先人の研究によれば、猫耳や獣耳といったものを漫画において表現したのは手塚治虫かもしれないという。さすがはあらゆる「性癖」の祖だ。ウィキペディアから得た雑な情報を鵜呑みにすると、1963年に『リボンの騎士』にて猫耳娘が登場したとのことだ。『ゲゲゲの鬼太郎』は1960年に貸本漫画として始っており、同年に「吸血鬼と猫娘」なるものが刊行されたようだ。そこで猫娘がどのように描かれているのか、参照していないから不明だが、恐らく最初から猫耳なしで登場しているのではないか。そもそも水木しげるは、手塚治虫と同じ気分で猫を由来とした娘を描いたわけではないのだろう。手塚治虫は後年の言葉でいうところの「萌え」だとか「性癖」だとかいう情動で表現していてもおかしくない。
昔、私が読んだ手塚作品の中に『漫画大学』(1950年作)というのがある。漫画とはどのようにして描けばよいのかという指南漫画で、作中では例として別の物語が展開される。作中作というものだ(手塚治虫は1951年にも『化石島』という、やはり複数の物語がダイジェストで展開する作品を描いており、この時期に得意とした手法だったのかと思っている)。そのうちの一つの話が、本来は登場人物全員が動物が二足歩行になったもので、それを後から一部を人間に修正したことで、動物と人間が入り乱れた作品となっている。はじめて読んだとき私はなぜそんな変なことをするのかと思ったが、そういう癖の持ち主だったとすれば話は簡単になるのかもしれない、と思ったが書いているうちに自信がなくなってきた。

けものフレンズ

これを面白く見ていたというのは、言い逃れできない不都合な事実だ。これこそ正真正銘、ケモ耳オンパレードな作品ではないか。ケモ耳も動物も興味がないと宣う人間が鑑賞していいものではない。なんだか流行っているから、ぼんやり見ていたという態度でもなく、それなりに熱心になっていたし、その後もう一度見直したほどだ。当時、親友とともに第一話を見て、親友が「全然おもしろくない」と言っているのに対して、私だけは異様な興奮をもって見ていた(親友のつまらなそうな態度も含めて面白かった)ことさえあった。これは一体どういうことなのか。
私が『けものフレンズ』を好きになったのは、2017年春に新しいアニメが一斉に放送される中で、誰からも期待されていなかった作品だったからだ。当然、私は完全に『けものフレンズ』のことを見落としていた。するといつの間にか、他のアニメを凌駕する勢いで「たのしー!」「君は~のフレンズなんだね」といった語録が溢れるようになったのだから、それは奇妙な気分になったものだ。ろくに宣伝されていないにも拘わらず、勝手に流行ったという現象を私は好んでいたのだ。いつかそういう正体不明なアニメが放送されていたら面白いだろうなと昔から考えていたところで、理想にそこそこ適合する存在が表れたのだから喜ばずにはいられなかった。

『けものフレンズ』は3DCGアニメで、毛並みが強調される質感がなかったことも私にとっては良かったのだろう。例の脱力感ある顔つきも良かった。申し訳程度に私の意地を見せるなら、『けものフレンズ』の中で最も好きなキャラクターはかばんちゃんで、やはり私はけものよりもヒトを好んでいたことがわかるだろう。

VTuber

これも非常に見過ごせない問題だ。どのような統計になっているのか知らないが、VTuberのケモ耳率はかなりのものではないだろうか。ここでも動物の耳をつけ足しておけば受けるに決っているという安易な断定がありはしないかと私は思っている。しかし私は現にホロライブのコンテンツを楽しんでおり、そこには白上フブキ(キツネ)や大神ミオ(オオカミ)などの動物由来のタレントがいて、当然のごとくケモな耳が生えている。私はそういったタレントに対していかなる態度で臨んでいるかというと、普通に受け入れている。これは妥協でもあり、もし彼女達にケモ耳がなければ私の情熱はさらに上をいっていたに違いないのだ。私にとってケモ耳とは、キャラクターの「力」を抑えるためのものであり、要するに本気を出していない状態であり続けていることになる。私はかつて猫又おかゆというタレントの外見を大いに好んでいたことがあり、名前からも察することができるように猫耳が生えている。当時私は、猫又おかゆに猫耳がなかったら私はどんな異常な情熱を傾けているか分らないとして、ちょっとした感謝の念を送っていたこともある。
結局のところ、私がホロライブ内で優先したくなるのは、人間の耳しかもたないタレントだ。自分でも忘れてしまいそうになるのだが、私が最も好きなのは不知火フレアで、この人はエルフ耳をもつ。はじめの方で引用した2021年夏の文章でも「エルフ耳はセール」ということを書いているが、それは今も変らぬ見解のようだ。もっとも2021年夏の時点で私は不知火フレアのことを知っているのであり、自己弁護の節もあるのだが。

私がVTuberを好んでいる理由の一つとして、「整合性の崩壊」を挙げることができる。例えばエルフと宇宙人と人型猫が同居する空間というのは普通のことではない。創作者は異常なことを、いかに自然にできるかという点で苦心するものだが、VTuberにおいては、そんなことお構いなしだ。この秩序なき状態を私は好んでいる。またVTuberをやっている人達は、猫耳をもっていても、もっていなくても実質同じようなもので、そうである必然性が最初から消えかけている。猫耳をもっている人となれば、なぜそのようにして生まれたのか、どのような環境で育ったのかという説明があってもおかしくないが、当人はそんな過去を物語ろうとはしない。話を聞いてると、普通の人間と同じなのではないかと思えてくる。この何が重要なのかよくわからないところが私好みだ。私は昔から物語性を嫌っていて、話なんて面白くない方が良いという思いが年々強まっている。だからVTuberは今、私の中でもっとも良い物語となっている。

私は大空スバルに追随する

これもVTuberの話になる。大空スバルというVTuberは、ホロライブを代表するタレントの一人だ。声がガラガラしているから正体はアヒルだと言われているが、一応人間の姿をしている。大空スバルは、いわゆる「オタク」と呼ばれるコンテンツをあまり享受することなく育った人間だと自身が主張しており、そんな人がVTuberという業界に入ったことが面白さとなっていた。大空スバルは熱心に「オタク」コンテンツを学んでおり、2022年9月7日に「大空スバルは萌えてみたい:」という配信を行った。

「萌え」を学ぶために、視聴者からあらゆる「萌え」を教えてもらうというという配信だ。多くの投稿が寄せられた中で、一人の視聴者が「ネコぱら」を紹介して猫耳少女の良さを語った。投稿文を読んだ大空スバルは露骨なまで言い淀んで、要するに「ケモ耳の良さってなんだろう?」ということを言った。コメント欄で視聴者がケモ耳の良さを答えようとしている中で、大空スバルは「怖いこと言ってる人がいる」と言いながら「​​人間じゃない(人権に配慮しなくていい)のが良いんだよ」というコメントを拾い上げた。あくまで他人のコメントを読み上げたのであって、大空スバル本人の意見ではないのだが、ケモ耳に対する無理解と、よりによってなコメントが合体して、ケモ耳をもつ者の人権を認めない差別主義者扱いされることとなった。その後、しばらくケモ耳をもつ同僚たちから肉迫を受けたのは、約束された流れだった。
大空スバルの問題は、何年間もケモ耳ありのタレントとともに活動をしていながら、未だに何の理解も示していなかったことが露呈したことであり、それはちょっとした衝撃として受け入れられた。元来から「失言王」という異名をもっていただけに、その印象はさらに強まることになった。

ところで私は、大空スバルの問題発言を聞いて、よくぞ言ってくれたと思った。私もまた、なぜここまでケモ耳のあるVTuberが当然のこととして登場するのかと不思議に思っていたからだ。大空スバルは後に「ケモ耳がなくても可愛いじゃないか」という弁明をしていたが、私はさらに過激に「ない方が可愛い」と主張したいほどだった。
結局これも、あまりに人々がケモ耳を普通のものと捉えすぎたからなのだと思う。さらに、先述のとおりVTuberとは、あらゆる属性を手にしてデビューするものだが、別にその属性に意味があってもなくても大差ない結果になる。そうではあるが、そうでなくともよいという、いい加減な状態を私は好んでいたが、このことによってケモ耳は是非を問わずVTuberには必須なアクセサリーというまでの属性となってしまったのではないか。この「なんとなく」な状況を、「オタク」的環境に慣れた者なら考えるまでもなく受け入れることができる。しかし大空スバルのような「オタク」というものに慣れていない、または直感型で生きている者にとっては、立ち止らざるを得ないものだったのだろう。
大空スバルは、言うだけ混沌とするだけの領域に立ち入り喋り過ぎた。失言だと言われることにはなったが、私は賛同していた。しかし大空スバルは自身の発言の禊として、しばらくケモ耳をつけられていたので私としては「しまったそういう展開もあるのだった」と罠にはまった気分になった。これはVTuber界においてよくあることで、本来ケモ耳がないタレントでも装飾品としてケモ要素を付け足すということがあり、そういうとき私の気分は若干さがっている。
今後、大空スバルが「ケモ耳の良さがわからない」と言うことはないだろう。むしろ嘘でも「ようやくケモ耳の良さがわかったぞ」とでも主張する方があり得る。それでも私は、図らずも(?)危険な発言をした大空スバルを応援したい気持ちに駆られている。しかし本人はそんな応援求めていないだろう。

それにしても「​​人間じゃない(人権に配慮しなくていい)のが良いんだよ」というコメントを送った者は何者だったのだろう。私は配信を確認して、誰が発言したかまでは特定した。発言者の思想が気になるからだ。しかし発言者はそれ以外のことを語りはしなかった。まだすべてを確認したわけではないが、今のところ本当に突発的に不穏な発言を投下した存在のようだ。私は彼からいろいろと意見を聞きたいのだが、これ以上の探索は難しそうだ。

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