結局、大神ミオのASMRが最高だという話~私的ASMR考

幼少期から好きな音や声を聞くと、その感覚に没入して何も手がつかなくなっていた私が、ASMRなる分野を知ったのは2016年の夏だった。人によっては声優ファンになるとか、ドラマCDを探求するとかいう方法を早くから見つけることができたのだろう。私は己の趣味に無自覚で、自分が「音フェチ」という言葉の定義に該当することすら知らなかった。ただ何となく好きでいた人間が、途端にASMRに巡り合ったのだから、そこからの傾倒は急速なものだった。2010年にニコニコ動画で投稿された「360度から音が聞こえてくる動画」を、2012年あたりで見たことがあったのだから、もっと早くに導かれるべき道だったと思う。

すっかりASMR愛好家になったのだから、さぞあらゆる音声を求めようと、YouTubeやDLsiteやで漁っているのだろうと思うかもしれないが、実はそうではない。私のASMR鑑賞は歯ブラシや乾電池と同じで、使えなくなるまでしつこく繰り返し聴き倒すという様式だ。一度ひどく気に入ったものが見つかれば、毎日そこに安住する日々を送っている。だから聞いてきた量は人と比べてかなり少ないと思う。
自分でも書いていておかしいと思うのだが、ASMRが「使えなくなる」とはどういうことなのか。しかしこれは実感として確かにあるもので、当初は凄まじいリラックス効果を放つ音声も、聴き続けると次第に力が弱くなるのだ。効力の期限はまったく予想がつかない。すべてはこちらの感覚がすべてであり、自覚できないきっかけで気分が合わなくなったとか、新しい魅力ある音声が見つかったことでそちらにかかり切りになるとかであり、気まぐれとしか言いようがない。2016年から絶えず遊牧民生活を送っている私だが、そこまで激しく切り替え続けているわけではない。多分今からでも、歴代のお気に入り作品を正確に挙げることができる。
探求した数でいうと決して多くはないASMR遍歴だが、これは私がかなり選り好みをするからだ。新たな良いものを見つけることに苦労をした覚えはないため、基準が厳しすぎるというほどでもないと思う。それでも結構な量の作品を自分好みではないとして退けている。だからこそ理想に近いものが見つかった時の喜びはかなりのものだ。これが手に入った以上、私は一生をともにしてもいい。無人島レコードならぬ無人島ASMRがあっても良いのではないかとすら思う。しかし先述のように、いつまでも同じ効力を発揮するASMRは滅多に存在しない。99%と言っても良いだろう。思い切って100%と言ってもいいが、それはまだ保留としたい。私の理想に完全に適合する作品があってほしいという願いを込めているからだ。ただし、それだけではない。実際のところ、もしかすると、私は理想に適合する作品と出会っている可能性があるからだ。それが「完全」と言えるのか、そして未来永劫の効果を秘めているのか、まだ断言はできないのだが。とにかく現時点での最高地点に辿り着いたことだけは間違いない。その「最高地点」とは何かというと、大神ミオのASMRだ。

大神ミオとはVTuberだ。「ミオしゃ」とよく呼ばれる。それ以上の説明はここではしない。とにかく大神ミオはYouTubeにてASMR配信を行っている。ここまでの記述を見て、ほう、どんなものかとYouTubeで「大神ミオ ASMR」と検索する方もいるかもしれない。検索すると、確かにいつくかの配信がでてくるだろう。しかし、それではない。いや、それでも良いのだが、私が言っているのはそれではない。誰でも聴けるものではないのだ。つまり、「タロットカードによるスピリチュアルASMR」でも「そうめんチュルチュルASMR」でもない、メンバーシップ限定ASMRを指しているのだ。大神ミオのチャンネルに飛んで、490円を支払う必要がある。そうすれば、少なくとも私にとっては楽園が待ち受けている。大神ミオは2022年9月からASMR配信を月に一度の頻度で行っている。基本的にどれも素晴らしい中で、「 【4月の月1ASMR】耳かき&お耳マッサージするね【メンバーシップ限定】」は出色の出来だ。この配信は2022年5月2日のもので、私は配信当日から今日に至るまで、ほぼ毎日の勢いで聴いている。これは冗談ではない。数えたわけではないが、どんなに低く見積もったところで200回以上視聴しているだろう。この配信は恐ろしいことに、最後まで聴けたことがかなり少ない。よくYouTubeのASMR動画のコメント欄で、「すぐ眠ってしまって最後まで聴けたためしがない」という意見を目にすることがある。その感覚は、私もこれまでに何度も経験したことだった。しかしその感覚は無限ではない。私がさきほど「効果が弱くなる」と言っていたことの意味はこれで、最初は入眠に最適だったものも割と急にそうではなくなるのが世の常だった。なんというか、どんなに強い催眠効果をもつASMRでも、一度最後まで聴くと魔法が解けるというジンクスがある気がする。感覚でしかない話だが、とにかくどんなに優れた音声でも効果が半年続くことは稀だ。
ところで大神ミオのASMR(特に上に挙げた題名の配信)は確実に数百回聴き返しているし、最後まで聴いたことだってあるのだが、未だに絶大なる効果を保っている。時折、素晴らしい技術か幸運かで良好な状態のまま保存されているミイラの話を聞くことがあるが、そんなものをミオしゃのASMRにも感じる。

それはお前が大神ミオに所謂「ガチ恋」をしているからだろうと思うかもしれないが、私は自分の感覚としては「ガチ恋」とか「推し」とかいう言葉がしっくりこないし(あまり好きな言葉じゃない)、強いてそういう言葉に当てはまる対象を挙げるとするなら不知火フレアの方が好きだということになる。私はタレントの何らかの表現が良いと思うことで初めて好意を向けるのであって、その人がその人であるだけで好きだという気分になることはほとんどない。だから私は大神ミオが好きというよりは、大神ミオのASMRが好きということになる。
それにしても今の自分は普通ではないと思う。私が大神ミオのメンバーシップに加入したのは2023年4月13日だ。それから一年以上ミオしゃのASMRにかかりきりになっている。これまで聴きながら幾度となく奇跡に詠嘆したが、さすがにこの状態が一年も続いていることに気づくと、自分でも呆れてしまう。私は必要に応じて、つまり気に入っていた音声の効果が薄れる度に新しいものを探していたのだが、大神ミオのASMRを知ったことで新規開拓の意欲がすっかりなくなってしまった。これでは進歩を忘れた、時代に取り残された人間ではないか。何より趣味として味気ない。しかし癒しの頂点の座が変わらないのだから仕方がない。消耗品同然にASMRを消費してきた人間として当然の最期だ。

なぜ私はここまで大神ミオの特定のASMR配信に対して、異常な執着を寄せ続けているのか。これについて考えたい。ただ躊躇することがある。基本的にメンバーシップの内容は他言するものではないからだ。これについては、法の穴をくぐりぬけるつもりではないが、色々と対策がある。まず、ASMRというのは「話の内容」よりも「音声そのもの」が重要だ。これが雑談ASMRとかなら話は別だが、純粋な耳かき音声において明日の命運を分けることを言われても困るわけで、つまり大したことは言っていないのだ(それが良いと私は思っている)。どんなに素晴らしいことを言うにしても、それが絶叫だったらASMR的には不正解なのだ。だから私の考えでは、メンバーシップ限定ASMRは音声を無断転載した時に有罪になるのであって、話していることは文字起こししても問題ではないとなる。無論そうはいかないのはわかっている。
また、大神ミオは「タロットカードによるスピリチュアルASMR」「そうめんチュルチュルASMR」という誰でも閲覧できる配信をやっている。それから公式サイトのショップでもASMRボイスが一応販売されてもいる。メンバーシップでの配信とは趣が異なるのだが、ある程度の参考にはなる音声が既に存在するのだ。だから私は決して触れてはいけないことを侵しているわけではない。
とはいえあまり具体的に言及することは良くない。例えば、いかなる工程で耳かきをしているかとか、こういう台詞があったとか、いくら音声中心主義を標榜しても慎むべき領域はある。そういった点には極力ふれないことにする。また、記事の題名にある通り、これは「私的ASMR考」でもあり、本稿で言及するのは私が何を好んでいて何をそこまで求めていないかということの確認だ。だから何も大神ミオのASMRに限った話ではないのだ。
最後に、私が好みを言ったからといって、ミオしゃがそれに反することをしてはいけないということはない。また、この世に存在する多くのASMR作成者が私の言うことに従わなくてはならないということもない。念のため言っておきたかった。

とかなんとか言っている内に、時間がなくなってきた。紙幅もない気がしてくる。これを書いている最中に、かつてお世話になったことのあるASMRの人が陰謀論者になったとして随分騒がれているのを目にしてしまい、動揺が隠せない。実際のところ、その人のかつての言動を知っているからいかにもな結果にも思えるので、本当のところで意外に思っているわけでもないのだが、それにしてもこんな巡りあわせで再会するとは思わなかった。Twitterを見ると、かつてのファンによる悲しみの声が響いている。私もまったく何も感じないわけではない。しかし、今の私には大神ミオのASMRがあるのだ。ただし大神ミオにしても別方面で故障が起きており、私は心配だ。


以下、大幅な追記。

声の高さ

ASMRといっても必ずしも声がなければならないことはない。声なしのASMRは大量にあり、それはそれで絶大な人気があるはずだ。ひたすら炭酸飲料をコップに注ぐ音を収録した音声を聴いたことがある。何かと性的な雰囲気が漂うASMRだが、それは声が至近距離で聞えることが最大要因であり、人間要素がなければ誰も文句が言えない健全コンテンツとなる。私はというと、やはり煩悩の発露のためか(私の主張としては、あくまで声フェチであるためだ)、声なしのASMRはタコ焼きのタコ抜きだ。非常に味気ない。

誰もが知る通り、人の声は千差万別だ。音が高いのもいれば、低いのもいる。声ありASMRにおいて極めて大事なのは、その人がどんな声色で喋っているかという点だ。叫ぶことの許されない、抑制された音量で話される声はどのように響くか。まず単純に判断できるのは、その声の高さだ。もちろんASMRにおいて、こんな声の持ち主にやる資格はない、なんてことはないはずだ。聴く方の好みもさまざまだから、どんな声にも需要があると言わなければならない。そんな人によりけりという話はおいといて、私の好きな声発表ドラゴンを召喚すると、「低めの声」だ。私は声に萌えてクネクネするというよりは、もう動けないほど沈む感覚を味わいたい。とあるASMR動画のコメント欄で非常に納得できる意見があった。その動画投稿者は女性で、声は私が好むところの「低め」だった。その声について、「非常に素晴らしい」と高評価した上で、「モスキート音を聞くと全然落ち着けないんだ」と吐露していた。コメントを投稿したこの人物は、声が高い人によるASMRを「モスキート音」と表現したのだ。それは実際に声が高い人にとっては有難くない言葉だろうが、私はどうしても納得してしまうものがあった。私が望む惑溺の感覚のためには、どうしてもある程度の音域まで声が下がってくれなければならない。先述の通り、これは私自身の好みだ。またASMRというのは、声が何であれ音遣いが優れていることが重要なのだ。
では低音になればなるほど私の喜びは増すのかというと、誠にわがままなことに限度がある。男性歌手の曲も余裕で歌えるのではないのかという魅力的な声域をもち、ASMRまでやってくれる女性はいるのだが、やはり私の理想から少し外れている。あくまでも私は「低めの声」を求めているのであり、決して高くはない、どちらかというと低い、それにしてもまあ高いかという中途半端なところを指定しているのだから、厄介な人間だ。
ここで現れてくれたのが、大神ミオだった。最初は気づかなかったのだが、ミオしゃは私の理想の声にかなり近い。まさに高すぎないが低いわけでもない結局高い部類といっても間違いではない声の持ち主だったのだ。なぜ気づかなかったのかというと、普段の大神ミオは割と高めの声を出して喋ろうとしていることが多く、配信ではそういうモードの声が基本となっている。ただしその場のテンション次第では声を抑えることもあり、そうなると大神ミオの声の一枚岩ではないところが表れるのだ。話し声と歌声とで様変わりする歌手がいるものだが、大神ミオもまさにそれで低音域の安定した歌唱を披露している。フランク・シナトラは40~50年代よりも、60年代のリプリーズ時代の方が優れていると私が思うのは、歌い続けることでシナトラの声が円熟に達しているからだ。ミオしゃも似たようなものだと思う。とにかくミオしゃはASMRで、ちょうど良いくらいの、つまり私の望む音域で話しかけてくれるのだから大変素晴らしい。結局これは大神ミオの声の特性としか言いようがない。低音域が安定した喉をもちながら高めの声で話す才能があったということだ。それが声の深みとなっている。

地声の生き残り

ASMRというのは繊細な音遣いが求められるから、喋る時も大声を出すわけにはいかない。その結果、ASMRという業界は、日常生活ではあり得ないほど囁き声がこだまする空間となっている。囁きは声を最小にしたものだし、バイノーラルマイクは小さな音でもしっかりと拾う。ASMRにおいて囁き声が王道の音となるのは必然だ。ところで私はASMRを聴き続けて、次第に飽き足りない思いに囚われるようになった。普段囁いてばかりいる人の声がふと大きくなり、小声になる時の特別な感じが忘れられなくなったのだ。せっかくだから小声だけで喋ってくれないかと思う。しかし世のASMRを探ると、どれもこれも囁き中心だ。もちろんシチュエーションボイスといって、物語仕立てになっている音声なら地声を楽しむことができるが、後述の理由で私はそれも違う気がしてならなくなっている。
私は自分の好きだと思う声をひたすら聴いていたい。私にとって囁き声は、味のついていない炭酸飲料だ。炭酸飲料は良いものだが、甘味を得たい時に飲むものではない。ASMRはやる人によって様式が微妙に異なり、囁くことが軸となれば基本的にいつまでも同じだったりする。そんな中で、声を小さくした地声で喋ることを自然なスタイルとしている人が見つかれば、私の理想通りのものとなるのだ。

無意味に話すこと

私の探求が悪いからこう言えるだけかもしれないが、ASMRというのはそこまで多様なことができるわけではないと思っている。正確には、安心して聴いていられる範囲は存外狭いのではないかということだ。私にいたっては、感受性が繊細すぎるのか、極めて限定されたものしか真に楽しむことができなくなっている。
ASMRの配信を見ていると、よく「雑談ASMR」というのがある。雑談と書いている通りに、身辺のことを語ったり、視聴者と会話したりする。バイノーラルによる特殊な感覚と、身近な会話が疑似的にできているという組み合わせが魅力なのだろう。その良さは私にもわからなくもない。しかし私はASMRを入眠のために聴くことが多い。そういう状況の中で、人から常に話しかけられていると、どうしても意識が冴えてしまって眠れない。どうせ他愛のないことと思っても、相手の話していることに意味を見出してしまい、自分ならどう言い返したものかと頭の中で考えてしまうのだ。そのため雑談ASMRは、その人の声を楽しむ上では最大級に良いが、意識を朧げにするにはあまり向いていないことになる。シチュエーションボイスも大変良いものだが、その世界に入り込むために色々考えるから、やはり頭が冴えてしまいかねない。以前聴いたシチュエーションボイスで、「俺」がやたらとハイスペックである事実が続々と浮上して、ぐーたら寝ているだけの私との凄まじい乖離のため自己嫌悪に陥りそうになったことがある。
これがASMRの難しいところで、リラックスを目的としていながら、常に音が聞こえるという状況のために緊張するというバッドトリップもあり得るのだ。結局のところASMRなんか止めて、何も見ず、何も聞かずじっとしているのが正解なのだが、この情報に溢れた生活の中で自力で無に帰るのは容易ではない。ASMRとは外部の情報を遮断するために必要な儀式だ。よって最も望ましいのは、特に意味がないことを喋るという方法だ。これは架空の言語をでたらめに言えば良いということでもない(それはそれで気になって落ち着けなくなる)。
意味はあるのだが、わざわざ読み取る必要がないもの。それはやはり耳かきASMRということになるのだろう。これもシチュエーションボイス仕立てでやるといくらでも物語性を出すことができるのだが、ただ単に耳かきをすることが決定している音声の場合どうなるだろう。実際のところ、耳かきをしている時に言えることはそんなにない。気持ちが良いか、痛くはないか、耳を綺麗にしてゆくことの過程報告といったくらいのことしか言えない。私情を挟み込めばそれは雑談になるのであり、純粋な耳かきというのは大したことが言えない作業なのだ。私はそれが良いと思っている。大したことがない言葉にも一応意味はあるのだが、私のようなASMR中毒者は延々とその手の音声を聴いているから、頻出単語を聴いてそれをどうこう考えようとは思わなくなっている。つまり私は慣れていることで安心しきっているのだろう。
とにかくさほど重要ではない、常套句をそこそこの頻度で言ってほしい。耳かき音声によっては、最後に喋ってから数分間黙っていることがあり、これまた味気ない。かといって間断なく喋るのも忙しくて落ち着かない。それなりの間を置きながら囁いてくれると、こちらの意識が沈んでは浮き上がるのを繰り返すことになり、これは眠る寸前の意識に似ている。こういう状態になるためには、声を傾聴し、それ以外は無心になることに努めなければならない。

リップノイズの是非

これは非常に難しい問題だ。リップノイズとは喋る際に、口を動かすことで生じる音だ。要するに水音ということだ。『ジャックスの世界』というアルバムに「時計をとめて」という曲があり、アルバム・ジャケット裏の解説に「歌う度にピチャピチャ鳴っています」といった内容の文言があり、滅茶苦茶気持ち悪いと感じたことがある。そんなことはいいとして、リップノイズは基本的に除去対象の音で、声のプロなんかは何かと色々やってなるべく鳴らないようにしているとか聞いたことがある。一方そのころASMRという変態コンテンツは、むしろリップノイズが鳴り散らかした方が好ましいという基準が存在する。主流のジャンルとして、咀嚼音ASMRというものがあるくらいだ。テレビでASMR特集といったものを突発事故で見てしまったことがあり、一例として提示されたのが咀嚼音だったのだから、私は二重で苦痛を受けた。ASMRはプライヴェートな趣味だったから、大っぴらにやるものではないと思ってしまうのだ。
実は私が最初にASMRを認識したのは、あにてぃ。という日本のASMR界の始祖が投稿した動画で、内容はまさに何かを食べる音声だった。まだ何も知らなかった私は、ついに自分の「音フェチ」が叶えられるコンテンツを見つけたと感激して、しばらく何度も聴いていたものだった。その動画は私にとって想い出そのものなのだが、残念なことに今ではまともに視聴することができない。というのも私は咀嚼音が大の苦手だということに気づいてしまったのだ。ASMR体験以前から体液を嫌悪する傾向があり、それは口の中にある水分ですら例外ではない。私は生命体として向いていない気がする。そんなわけで、どんなに素晴らしい声をもつ人のASMRでも、ジャンルが咀嚼音というだけで受け付けられないのだ。
そうなるとリップノイズも当然ダメに決まっているとなりそうだが、ここで私は人格が変わって「それは平気」となる。自己分析すれば、敢えて鳴らしている水音が嫌いで、適切な音を出すために副次的に生じてしまったものなら大丈夫だということになる。咀嚼音というのは自発的にモノを食べているから鳴るわけで、これは私にとっては挑発行為に近い。純粋に美しい声が放たれると同時に乗ってしまう程度のリップノイズなら、むしろ彼我の生が実感できて良い。といってもやはり限度があり、納豆を彷彿してしまっては一巻の終わりとなる。また、生の実感といっても、生そのものといえる心臓の音をマイクに響かせる「心音」という人気ジャンルは、これまた受け付けられない。怖くなるからだ。夏目漱石の『それから』で、大助が自分の心臓を心配していたのと同じような理由だ。本当にこれからも安定して動くのだろうかと不安になってしまう。

オノマトペもなんか違う

オノマトペというのは意味の希薄な言葉なのだから、むしろ私の理想に近い気もする。しかし私にはどうしても滑稽な響きに聞こえて、居心地が悪くなる。耳かき音声の時に「カリカリ」と囁くのが主流で、最初は随分変な気がしたが、あまりにも多くの人がこれをやるため、さすがに慣れた。ASMRにおいて一番重要なのは慣れ果てるということなのかもしれない。聴いていて特に疑問に思わなくなればこっちのものだ。私のオノマトペ修行はあまり進んでおらず、大半のオノマトペが馬鹿げて聞こえる。よくパ行を重点的に囁くといった趣旨の音声を見かけるが、「なぜこの人はパピプペ言うのだろう」と素朴な問いを向けてしまうのだから、とことん無風流な人間だ。というわけでオノマトペ系統の音声も、私は避けている。

なぜ耳に息をかけるのか

私は日頃耳かき音声ばかり聴いていて、これが現実ならとうの昔に耳がそぎ落とされているだろう。現実の私は耳かき好きではなく、異物混入感が酷すぎて未だに好きになれない。耳かきは私にとってヴァーチャルな作業なのだ。だから私はVTuberを好むようになったのだろうか。
耳かきに無縁だった私が、最初に耳かき音声を聴いた時は始終意味不明だった。あの綿っぽいやつ(梵天)が何のために存在するのか理解できなかったし、極めつけに耳かき担当者が眼前の耳に息を吹きかける儀式も不気味だった。そもそも耳かきなんてやらない方が良いのだ。膝枕だってやらない方が良い。耳を天に向けると、取り除かれた耳垢がそのままホール・インする。「耳ふー」なんてのは言語道断だ。梵天も多分やらない方が良いだろう。癒しの音を求めるために、徹底的に間違った工程を題材にした音声を聴いているというのは、冷静に考えると変で面白い。カラスは白いという嘘を、信じてはいないが平気で受け入れている感覚だ。だいたい「耳ふー」とはなんと滑稽な響きだろう。人に読ませるために「耳ふー」と書くと照れてしまう。いい加減、漢語調の正式名称が欲しくなってきた。私は風間くん以下だ。
この耳吹童子は、ASMRをやる人によって流派がある。要するにどれくらい激しい音で息吹を送るかという問題だ。繊細な音を拾うバイノーラルマイクに向けて息を吐くというのは、一種の虐待を感じないだろうか。口をマイクに近づけないと、本当に息をかけられている感じが出ないため、どうにかして弱く、それでいてはっきりと音をきかせなければならない。これはなかなか難しいことで、うっかりすると耳に台風が発生する。割と有名な人でもこうなっているし、もうこれが己の「耳ふー」スタイルであると開き直っている(というわけでもないのだろうが)場合も珍しくない。だからこそ私は流派を感じるのだ。中には轟音ではなく、本当に息がそのまま伝わっているようにできる人もいて、大層な「業」を感じる。ここまで色々書いておいて、私自身ASMRの提供者になったことがないためよくわからないが(私は楽器ができない音楽評論家だ)、かなりの練習と工夫を凝らさないと、あの繊細な息遣いは不可能だと思う。我がASMR探求の初期の段階で知って、感激したのは、高倉むきという人だ。このどうしても「健」という文字をつけ加えたくなる人による耳吹はかなりリアルなものだった。といって私は本物の耳に本物の息をかけられた経験が多分ない(憶えてない)から、よくわからなくなってきた。結局、耳かきとは、リップノイズとは、耳に息とは、バイノーラルとは、ASMRとは何なのだろう。

大神ミオへ還る時

途中から大神ミオの名前が全然出てこなくなったが、これは色々都合があってのことだ。私は偉そうに、随分と色々な手法を自分好みではないとして退けてきた。そうなるとなかなか理想通りのものは見つからない。だからこそ、理想にかなり近いものを発見した時の感動、そして効果は凄まじいものがある。私は最初に書いた通り、ミオしゃのASMRに感激し、それ以外の音声をまともに聴かなくなってしまっている。これは、そういうことだ。「 【4月の月1ASMR】耳かき&お耳マッサージするね【メンバーシップ限定】」とは先にも書いた通りだ。これはどういうことかというと、そういうことなのだろう。しかしわからない、人の好みはそれぞれなのだから。

大神ミオ以外に、VTuber畑で素晴らしいASMRを提供しているのは、猫又おかゆ、尾丸ポルカといったところだ。鈴鹿歌子、白雪巴、来栖夏芽も大変良いと思う。最近は雷迷テラという人のASMRにも注目している。ここで挙げた人の声を聴けば、何かしら私の「癖」がわかるのではないだろうか。

最後に、2024年5月現在、大神ミオは急病により活動休止を余儀なくされている。殊更心配しようというつもりはないが、やはり何かと思ってしまう。月末に行われるASMRが当分おあずけになっているからだろうか。私は薄情な人間だ。いつも視聴者を労わってくれたミオしゃだが、今は、そしてこれからは自分自身を大事にしていただきたいと切に願っている。

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