たまごの味噌汁について(覚書)

以前に書いた「私はおんねこの作者かもしれない」という記事で言及した、たまごの味噌汁について思い出したことがある。何かと揶揄されることの多いおんねこ作者の特異点として、卵に対する奇妙な執着ということが挙げられる。その作者は、私生活、エッセイ漫画や自作(?)の漫画において、しきりに卵を登場させていた。あまりにも頻繁に登場しているにも拘わらず、作者は己の執着に気づいている節がなく、創作者としての作風として確立している様子もなかったのだ。
おんねこ作者のことを純粋な悪意によって笑える立場にないと感じている私だが、殊に卵に関しては冷や汗を流したことは過去の記事を読んでも明らかだ。今日の夕食の献立を訊ねる子供に対して、母親が「タマゴの入ったみそ汁」としか答えないありさまを、作者は描いた。おかずでもない味噌汁を言われただけで喜ぶ子供の姿が自然ではないとして、揶揄の対象となっていた。しかし私は「タマゴの入ったみそ汁」が大の好物であり、少食なこともあって夕食が味噌汁だけでも問題ないと感じる。だから私はおんねこ作者の好物や価値観が共通しているとして、他人事ではないと思ったのだった。

これ以降、おんねこ関連の話はまったく関係ないので、もしその手の話題を期待している方がいたら申し訳ない。あれから卵の料理を見る度に、例の漫画や私が書いた記事を連想してならない私だが、それは私の悲運とでも言うべきものだ。
ここで私が言いたいのは、なぜ私はこんなにも「タマゴの入ったみそ汁」が好きなのかということだ。おんねこ作者がベストだと考えている味噌汁の卵の状態がどんなものか知らないが、もしかするとそれは溶き卵なのではないかと私は未だに気になっている(これも過去の記事に書いた)。自分でも卵の趣味があの方と同じであってほしいのかそうでないのか分からないが、とりあえず被っていたとしてもそんなに嫌ではないと思う。ちいかわだけでなく、あちこちの漫画から設定や描写を拝借しているとかいないとか言われているおんねこ作者といえど、「タマゴの入ったみそ汁」が好きであることについては決して罪はない。もちろん私も、問題の人物と好物が被っていたからといって反省しなければならないなんてことはない。問題なのは、「タマゴの入ったみそ汁」が美味すぎることだ。さすがの私も味噌汁を訴えるほど無鉄砲ではないし、それはおんねこ作者だって同じだろう。

謎の魔力に引っ掛かり、まだON猫の話をしている。呪縛から逃れるために結論を先に言うと、父親の言葉のせいで、私はタマゴの入ったみそ汁(溶き卵仕様)に魅了されることになった。さっさと経緯を書いてしまうと全然大したことのない話で、単純に父親が美味そうに卵味噌汁を飲んでいたことが、十歳頃の私の心に響いたというわけだ。有名なCMで、タレントでもない男性がお茶漬けをかっ食らうものがあって脚光を浴びたことがあるが、それの超ローカル版が我が家で演ぜられたのだ。
「お茶づけ海苔」のCMの男性と父親の違うところといえば、父親の言うことが少しおかしかったという点だろう。父親は帰宅するなり、出された夕食をいつも通り食べていた。そして、たまごの味噌汁を飲みながらやたらと唸っていた。何を言うかと思えば「塩分がよく利いてるよ」「この塩分が」とずっと繰り返している。ちなみにいつもの父は、味噌汁をこんな風に評しながら飲む人ではない。それが、たまごの味噌汁を飲んだ日に限ってやたらと塩分を強調するのだから、私は不思議な気持ちになっていた。父の独り言を聞いていると、たまごの味噌汁は、味噌汁界の中でも特に塩分が強い飲み物であるという気がする。
とはいえ味噌汁は、味噌や出汁が含まれている時点で塩分が確定しているのだ(実際塩分はそこまで強くない)。そして卵は、塩分が強いものではない。だからたまごの味噌汁を飲んだ時に限って塩分をありがたがる父の姿は変だった。しかし幼い私は、たまごの味噌汁は父がこんなに言うほど塩分のあるものであり、それは人体に特別な恩恵をもたらすのだと思い込んだ。以来、食卓にたまごの味噌汁が出る度に、父の「塩分が、塩分が」という言葉を思い出すようになったのだ。父親の言葉は、気づけば私自身の執着に成り代わり、いつしか起点を忘れるようになった。

こういう思い出を、私はホッケ定食に付属する貝出汁の味噌汁を飲みながら思い出した。肝心のたまごの味噌汁を飲んでいては、もはや思い出せなかったことだ。それは思い出とあまりに近すぎるからだ。私は梅干しが好きで、よく食べる機会が多かったのだが、ある時ふとそこにいた母親に食べないかと言うと、母親は梅干しがそこまで好きではないと答えたので衝撃を受けた。今まで私は眼前の梅干しに狂って、傍で冷静に見ている母親の姿などまったく目に入っていなかったのだ。ちなみに母親はフルーツもそこまで好きではない。物覚えの悪い父親は、母親が種々のフルーツを遠慮する度に、「あんた好きじゃないの?!」とやけに大きな声で問うていたものだった。このように父親は同じシチュエーションで同じことを言い続ける。だから私は、父親は複数人いて毎日交替しているのだと信じている。

私は味噌汁となると、具材がたまごでなくても無性に好きだ。もっともキノコは苦手な傾向があり、なめこになるとバッドに入るのだが。具材次第では思う存分飲みたいと思う。だから私は大きな器を導入して、それに味噌汁を注いで飲むことにしていた。どれくらいの大きさかというと、500mlがちょうど入るくらいだ。多分これは多い部類なのだろう。他の家庭のことはあまり知らないが、飲食店で味噌汁を注文すると随分小さいと感じる器が提供されるものだ。唯一これはと唸ったのは、資さんうどんで味噌汁の大盛を頼んだ時だ。メニューに貝汁があることを知った私は、世間の味噌汁が少量であることを踏まえて、喜び勇んで大盛を選択したわけだが、そういえばうどんも汁物だったことに注文後気づき、猛烈に汁を飲むこととなった。さすがに注文ミスだったと思う。

失敗談はともかく、私は普段から大量の味噌汁を飲んでいる。そのために大きな器を用意していたのだが、最近になって味噌汁は小さな器で飲むものではないかと思うようになった。大きな器に汁を注ぐと相応に重くなって持ちづらい。私は毎度おかわりをするのだが、そうなると大きな器が強敵に見えて、毎回力づくで対処しなければならない感覚に陥る。小さな器は、あらゆる問題を解決してくれる。いろいろと負担が軽いのだ。品格もある。おかわりの頻度は高くなるが、大して面倒ではない。飲みたいから飲むのであって、情熱がある限り負担にはならない。大きな器は急に暇になったのだが、今後どう使ってゆこうかと考えている。たまごの味噌汁に限って、使うことにしようか。そしておんねこ作者のことではなく、父親のことを思い浮かべることにしようか。そんなことを思う。

前回の記事「しかのこ(以下略)は面白いということで」で、この記事は次回に続くと宣言して一週間経ったのだが、今回の記事は全然続編になっていない。どうも私は次回に続くというやり方が下手なようだ。今回は失敗ということで、次回こそは約束を果たすので、どうかお待ちいただきたい。

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