ポール・デイヴィスの『アイ・ゴー・クレイジー』は優れた作品か

人並み以上に60~80年代の英米の音楽を聴いてきたつもりだが、特定のアーティストのアルバムをすべて所有しているということはごくわずかだ。あちこちに手をまわしていると、とても収拾がつかない。すべてのアーティストに同じ熱意を向けられる訳もない。気に入ったとしても、安定して入手できるとは限らない。すべてのアルバムが安定して手に入るということは、長年にわたって支持を集めているということだし、そこまで安定した活動ができている人のディスコグラフィーは膨大になりやすい。そうなると例によって、こちらの余裕がなくなる。こんな風にしてコンプリートは難しくなる。

ビートルズやビーチ・ボーイズ、4シーズンズ、XTCなら、ほぼ集めていると言えるだろう(ベスト盤などは除く)。あとは、そこまでは有名ではないミュージシャンも幾人かは完全収集ができているだろう。そういうミュージシャンはアルバムをそこまで出していないため、一度意欲を出せば何とかなったりする。今思いつくのは、ルーパート・ホームズ、ビリー・スワン、そしてポール・デイヴィスといったところだ。

ポール・デイヴィスのアルバムで、最初に買って聴いたのは『アイ・ゴー・クレイジー』、原題は『Singer Of Tales, Teller Of Tales』だ(記事の題名では、わかりやすく『アイ・ゴー・クレイジー』と記したが、以降は原題である『Singer Of Tales, Teller Of Tales』に統一する)。私はシングル・ヒットチャートの1955年から「現在」までを体験するという計画を長年かけて実行しており、1978年にヒットした「I Go Crazy」「Sweet Life」が気に入り、二曲が収録されているアルバムを買ったのだった。これが大当りで、今日にいたるまで繰り返し聴くアルバムとなっている。良い曲が次から次へと流れてくるアルバムというのは多いものではない。感覚だと五十枚に一枚といったところだろうか。自分の感性に合ったアルバムとはなかなか出会えないものであり、いざ当りを引き当てた時の喜びは筆舌に尽くしがたい。

私はポール・デイヴィスに注目して、『Singer Of Tales, Teller Of Tales』以外のアルバムも聴こうと思った。ここで問題となったのは、『Singer Of Tales, Teller Of Tales』以降のアルバムは入手しやすいが、それ以前のアルバムは容易ではないということだった。ポール・デイヴィスは『Singer Of Tales, Teller Of Tales』がヒットするまでに四作のアルバムを発表しており、いずれも商業的成功とは言えなかった。多少のシングル・ヒットは生まれていたのだが、地味なものだった。地味な時期にあたる四枚のアルバムの入手は安定しておらず、私の意欲が高まってもどうしようもないところがあった。結局全部のアルバムを手に入れるのに二年を要した。五年とかいう年数と比べるとまだ短い方だが、物欲が暖簾に腕押しのままになっているのは辛いものだ。収集活動は長い年月をかけて行うべきという心得をもっている私は、仕方のないこととして耐えるばかりだった。二年で集まったのは運も絡んでいるが、やはりポール・デイヴィスがそこまでアルバムを多く発表していないことも一助となった。

私がポール・デイヴィスという優れたミュージシャンを認識するきっかけとなったのは「I Go Crazy」であり、この曲が入っているアルバム『Singer Of Tales, Teller Of Tales』だ。『Singer Of Tales, Teller Of Tales』は優れた曲が揃っているアルバムであり、ポール・デイヴィスの最高傑作だと思っていた。しかし最近になって、このアルバムは真に最高傑作と言えるものなのだろうかという疑問が浮かぶようになった。もちろん私は『Singer Of Tales, Teller Of Tales』が好きだし、今後も聴き続けることだろう。しかしこのアルバムが生まれるまでの軌跡を辿ると、いくらか複雑な事情が窺えるのだ。

まずポール・デイヴィスはバング・レコード(Bang Records)に所属していたアーティストだった。バング・レコードは60年代に成功を収めた新興レーベルだった。マコーイズの「Hang On Sloopy」が1位になったことがある。アメリカを代表する歌手の一人であるニール・ダイアモンドが最初に成功したのもバングだった。孤高の歌手であるヴァン・モリソンもバングからデビューし、「Brown Eyed Girl」がヒットした。こうしたヒットの多くは、創立者バート・バーンズなしには成立しなかっただろう。バート・バーンズはプロデューサーでもあり、ソングライターでもある。我々は作曲というと、複雑なコード進行だとか最後で転調(厳密には移調)したりとか、技巧を凝らすことを考え、それが偉いと思いがちだ。それに対してバート・バーンズはいたって単純な3コードで曲を作り続けた人物で、これはかなりセンスが試される。三つの和音でやれることは少ないので、アイデアが早く尽きやすいのだ。バート・バーンズはセンス一直線でいくつものヒットを送り出したのだから才能は本物としか言いようがない。そんなバート・バーンズに欠点があるとすれば、比喩ではなく短命だったという身も蓋もない話で、1967年に38歳という若さで亡くなってしまった。

ポール・デイヴィスがバング・レコードに所属したのは1969年だから、バート・バーンズが亡くなった後だ。ポールはABCレコードと契約を結ぶ寸前だったのだが、バート・バーンズの妻だったアイリーン・バーンズがポールの才能にほれ込み、引き抜く形でバングと契約させたのだ。夫が亡くなった時、アイリーンは24歳だったのだから、なかなか胆力のある人だったのではないだろうか。

私がヒット・チャートを追う中で、最初にポールの名前を見つけたのは1974年のことだった。ポールのシングルがバング・レコードから出ていることを知った時はいくらか驚いたものだ。バングといえば60年代にヒットがいくつか生れたレーベルであり、70年代も半ばになってまだ存続しているとは思いもよらなかったのだ。

ポールの最初のシングル・ヒットは「A Little Bit Of Soap」だった。これはバート・バンズが書いた曲で、1961年にジャーメルズというヴォーカル・グループが歌ってヒットしたものだ。ポールのヴァージョンでプロデュースを担当しているのは、アイリーン・バーンズだ。今は亡き創設者が作った曲を、残された妻がプロデュースする。こんな待遇を受けるくらい、ポールは期待がかけられていた。

ポールが歌う「A Little Bit Of Soap」はビルボードのシングル・チャートで52位を記録した。続くシングル「I Just Wanna Keep It Together」はポール自身による曲で、これは51位となった。ヒットはしているが、なんとも微妙な数字だ。ポールのキャリアは最初から「微妙」で、それが後になっても続くことになる。

ポールのファースト・アルバムは『A Little Bit Of Paul Davis』(1970年)という題名だ。ヒットした「A Little Bit Of Soap」にあやかった題名となっている。改めて聴くと、なかなか良いアルバムだ。嫌味のない良い曲が揃っている。カヴァー曲である「A Little Bit Of Soap」と、ポールが書いた曲との間に違和感はなく、すべて同じ人が作った曲だと言われても信じられる。ポールの曲は聴きやすく、メロディアスで、そこが私の気に入るところだ。ファースト・アルバムはポールの美点がさりげなく示されたアルバムで、この時点で完成されていると言っても良いくらいだ。とはいえ、このアルバムはいくらか地味で、訴求力がない。嫌味がないとは先程も書いたが、そこが欠点にならないではないのだ。

ポールのセカンド・アルバムは、『Paul Davis』(1972年)というエポニマス・タイトルだ。アルバム・カヴァーはポールの顔と窓付きの扉を重ね合わせた意匠になっており、少し不気味でもあるが、ポールのアルバムの中では最もデザインが優れている。ポールの容貌はここで定まりつつある。ファースト・アルバムのカヴァーを見ても、ポールは髪を伸ばし、髭を生やしているが、セカンドでは更に進化している。毛髪のせいでむさくるしい印象を感じることがあるが、若い頃(20代前半)のポールを見ると本当は悪い顔をしていないことがわかる。

青みがかったアルバム・カヴァーを見て感じ取れるように、『Paul Davis』は内省的なアルバムだ。正確には、印象に残る曲がことごとく内省的なのだ。優れたソングライターであるロジャー・ニコルズ、ポール・ウィリアムズによって書かれ、カーペンターズが歌った「Let Me Be The One」をポールは歌っており、これがなかなか良い。それからポール自身によって書かれた「Broken Hearted And Free」「Keep Our Love Alive」もかなり優れた曲で、この曲が聴けただけでも得した気分になる。

書き忘れていたが、ポールはカントリー畑の人だ。日本でいうところの演歌だ。ただしポールはカントリーに肩まで浸かっているのではなく、程よくカントリーの香りがするといった程度だ。このバランスがポールの美点であり、親しみやすさであり、後に成功を収めることにもなる。

『Paul Davis』で打ち出されたのは、ヴァラエティー豊かな曲を揃えようという意識だろう。ファースト・アルバムに収録された曲の出来はどれも均質だった。それは良いことであるが、悪く言えばどれも同じで聴いた後になって思い返すと印象に残らない。『Paul Davis』では、忘れている曲もあるが、はっきりと頭に残る曲もある。実力は確実に上昇しているポールだが、商業的には成功していない。『Paul Davis』からは「Boogie Woogie Man」という曲がシングルになっているが、これは最高68位だった。どうにも低空飛行だ。

この微妙な状況を打破しようとして作られたのが三作目の『Ride 'em Cowboy』(1974年)なのだろう。ポールはカントリー出身で、アルバムの題名にも「Cowboy」という単語がある通り、このアルバムは最もカントリー要素が強い。曲によってはポールなりのロック路線を追求しているものもある。今までのポールを知っていると、意外な感じがする。正直なところ、この路線は私の趣味から外れている。嫌いではないが、ポール・デイヴィスではなかったら強いて聴こうと思わなかっただろう。

ポールはそろそろ明確な個性が欲しかったのだろう。あるいは求められていたのだろう。ポールの特質はメロディアスな曲が書けることだが、それはあまり売れない。だから本命ではないが、他に自分が持っているものを育てていこうとした可能性がある。その目論見はある程度成功した。表題曲「Ride 'em Cowboy」はポールにとって初のトップ40ヒットとなった。それまでの低空飛行から、一気に23位まで上昇したのだ。

そうなるとポール・デイヴィスはポップ・スター街道に仲間入りしかけたことになるが、一曲が23位を記録した歌手の存在感が大きいかというと、そうではない。「Ride 'em Cowboy」が最高位を記録したのは1975年1月23日付のシングル・チャートだ。この時期はシンガーソングライター全盛期でもあり、シングル・チャートの上位にはバリー・マニロウ、ニール・セダーカ、バリー・ホワイト、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、ポール・アンカ、ポール・マッカートニーと、一流が勢揃いしている。それらと比べると、ポールの曲は地味だ。地味に感じるのは無理もないことで、「Ride 'em Cowboy」はドラムの音がなく、バンド・サウンドではない。あまりにも素朴な曲調であることと、町一番だったカウボーイが昔を懐かしむという内容が逆に受けてヒットしたのだろうが、70年代半ばはその手の音楽が主流となっている時代ではない。既にディスコ・サウンドが台頭しており、それはポールのようなカントリー出身のポップな曲を書く人にとって歓迎できる潮流ではなかったはずだ。

四作目である『Southern Tracks & Fantasies』(1976年)は、カウボーイらしい帽子をかぶったポールの肖像画がアルバム・カヴァーになっており、もしや前作よりもカントリー色が強くなっているのかと思うが、そんなことはない(カヴァーを見ると、虹の円盤が添えられていたりと、若干コズミックな感じもしなくもないので、マイケル・マーフィーを連想する)。ポール・デイヴィスのアルバムといえば地味で素朴な印象だったのが、ここにきて少し派手になっている。主な理由として、このアルバムではじめてシンセサイザーを導入していることが挙げられる。これも書きそびれていたことだが、ポールは鍵盤奏者だ。かつて私はポールの長髪髭の姿を見て、泥臭いロックンロールをやるギタリストだと勝手に決めつけて遠ざけていたから、曲がかなりポップであることに驚き、ギターではなくキーボードを弾くことを知って更に驚いたのだった。時は70年代も後半になろうとしており、ポールがシンセを使うようになったのも自然な流れだ。こうして『Southern Tracks & Fantasies』は、カントリーでもなくロックでもない、今までの経歴があったからこそ表すことができた独自のサウンドになっている。ここで一人のアーティストとして完成している節もある。

一応このアルバムからもシングル・ヒットが出ている。「Superstar」という曲で、最高35位を記録した。実在のスーパースターの名を挙げて讃えるという内容で、バーニー・トーピンとエルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー、リンダ・ロンシュタット、ジョニー・ミッチェルが挙げられている。曲自体は悪くないのだが、こういう曲がヒット曲として出てくると妙な気がする。悪く言えば媚びを売る内容だし、企画色が強く、どういうつもりで歌っているのかよくわからないのだ。ところで「Superstar」と「Medicine Man」という曲にはピーボ・ブライソンがバッキング・ヴォーカルとして参加している。後にロバータ・フラックと「Tonight, I Celebrate My Love」をデュエットしてヒットする前のピーボ・ブライソンだ。ポール・デイヴィスとピーボ・ブライソンという組み合わせは意外で関係性が見え難いが、実はピーボは1976年にバング・レコードに所属していたのだった(正確にはバングの傘下レーベルである「Bullet」に所属していた)。

私はチャート・ヒットを疑似体験する中で、「Ride 'em Cowboy」も「Superstar」も耳にしたが、いずれも強い印象を受けはしなかった。ポール・デイヴィスという名前は把握していたが、今後もヒットが出るとは思えなかった。なんといってもヒット曲の最高位が23位と35位だ。微妙な順位だし、数字が落ちてもいる。ヒット・チャートの世界には、一瞬だけ名前が出てきて、あとはそれきり二度と姿を見せない人達が大勢いる。ポールもその一人になるのだろうと思い、気にも留めなかった。

ここにきて出てきたのが五作目の『Singer Of Songs, Teller Of Songs』(1977年)だった。アルバムに収録されている「I Go Crazy」が今までの流れを新しくした。「I Go Crazy」によって、ポールは初のトップ10ヒットを獲得することになる。ただし、発表とともに急速にチャート上位へ駆け昇るヒットではなかった。ここが「I Go Crazy」の興味深いところで、いつまでも忘れられないことだ。「I Go Crazy」がトップ40位圏内に入ったのは1977年の10月29日で、37位からはじまった。そこから34-31-29-28-25-25-23-23とじわじわと上ったところで、1977年を終えている。普通の曲なら、こんなに長く21位以下にて留まることはできない。特に25位と23位をそれぞれ二週キープするというのは絶望的な局面で、普通なら急速に100位以下へと墜落するものだ。しかし1978年1月7日、21位からはじまり翌週もさらに21位。その次の週にやっとのことで19位になった。勢いは止まらず、18-16-14-12-11-9-8-7-7-7という経過を辿った。何万とあるヒット曲の中で、ここまでじっくりとチャート上位へと昇っていった曲は珍しい(他の例はクリス・クリストファーソンの「Why Me」といったところだろうか)。

「I Go Crazy」は悲し気なイントロから始まる曲で、派手な歌ではない。一聴して人の心を強く捉える曲ではないかも知れない。しかし不思議と引き込まれるものがあり、繰り返し聴く度に確信となってゆく。同じ現象にとらわれた人が多くいたことによって、息の長いヒット曲となった。ポール・デイヴィスは正真正銘の大ヒット曲を獲得することとなった。

その後ヒットした「Sweet Life」(最高17位)も気に入った私が、『Singer Of Songs, Teller Of Songs』を買い、何度も聴いていることは先にも書いた。『Singer Of Songs, Teller Of Songs』には優れた曲が多数収められている。ただし、このアルバムを制作した時のポールの心境はどのようなものだったのか。そのことを考えるようになった。

まずこのアルバムには、過去のアルバムに収録されていた曲の再録音が三つ含まれている。「Hallelujah Thank You Jesus」「Editorial」は前作『Southern Tracks & Fantasies』に収録されており、「You're Not Just A Rose」は『Ride 'em Cowboy』の一曲目を飾っていた曲だ。日本盤の解説で、金澤寿和は「過去のルーツを確かめるため」だったのではないかと解釈しているが、それにしても十曲中、三曲が再収録とは少し多いのではないだろうか(ちなみに金澤は「You're Not Just A Rose」が再録音であることをその解説で記していない)。こんなことは過去のアルバムではやっていないことだ。

また「Darlin'」という曲は、ビーチ・ボーイズの曲のカヴァーだ。ビーチ・ボーイズの代表曲として第一に挙がる曲ではないが、ビーチ・ボーイズを愛好する者にとっては絶対に欠かせない曲だ。バング・レコード期待の新人として「A Little Bit Of Soap」をカヴァーすることこそあったが、それ以降は他人のヒット曲をカヴァーすることをポールはしなかった。「I Go Crazy」と「Sweet Life」とがヒットしたことは先にも書いたが、実はこの二曲の間に「Darlin'」はシングル・カットされており、51位を記録している。決して悪い出来ではないが、原曲と比較すればビーチ・ボーイズのヴァージョンの圧勝だろう。ポールによる「Darlin'」がシングル・カットされたことを知った私は、なぜここでカヴァー曲がシングルとして選ばれたのだろうと疑問に思った。人気のあるビーチ・ボーイズの曲だからという安易な理由での措置ではないかとさえ思ったほどだ。案の定、51位という高くはない順位で終っているのだから、良い手段だったとは思えない。

さらに「Sweet Life」と「Never Want To Lose Your Love」はポールによって書かれた曲ではない。他人の曲を採り上げるのは今回に始まったことではないので、それ自体は珍しくはない。ただ、再録音が三曲あり、「Darlin'」をカヴァーしたことも併せて考慮するとどうなるろうか。ポールは『Singer Of Songs, Teller Of Songs』の制作のために四曲しか用意しなかったことになる。「I Go Crazy」「I Never Heard The Song At All」「I Don't Want To Be Just Another Love」「Bad Dream」の四曲が、ポール自身によって作られた純粋な新作だ。一つ言いたいのは、「I Go Crazy」が大ヒットしたことはもちろん、「I Never Heard The Song At All」「I Don't Want To Be Just Another Love」がこれまでのポールの曲の中でも出色の出来だということだ。『Singer Of Songs, Teller Of Songs』というアルバムが好きになった原因として、これらの曲があったことは無視できない。ポールは相変わらず素晴らしい曲を作ることができている。アルバムの全体の印象も若々しい。ただし、1977年時点でポールは、一度才能が尽きかけている──それが間違いだとすれば何かしらの迷いが生じているのではないかと思えるのだ。

『Singer Of Songs, Teller Of Songs』を1977年に発表してから、ポールの新作はすぐには発表されなかった。1978年にはナイジェル・オルソンのアルバムをプロデュースしている。ナイジェル・オルソンは、エルトン・ジョンのバックバンドでドラムを担当していた人で、自身も作曲や歌もこなす。1978年にはコロンビア・レコードからアルバム『Nigel Olsson』をリリースしている。このアルバムのプロデューサーがポール・デイヴィスなのだ。このアルバムは残念ながらヒットしなかった。同年にナイジェルはバング・レコードと契約し、12月にシングル「Dancin' Shoes」をリリースし、これが最高18位を記録した。「Dancin' Shoes」もまたポール・デイヴィスがプロデュースを務めている。1979年には『Nigel』というアルバムが出ている。これは前年に発表された『Nigel Olsson』から一部の曲を省き、新曲を加えた、いわば新装版だ。アルバムからは「Little Bit Of Soap」がシングル・カットされ、34位を記録した。「Little Bit Of Soap」といえば、かつてポールがデビューして間もない頃に歌い、チャート・インした曲だ。この点を見ても、ポール・デイヴィスがいかに律儀な人間であるかがわかる。

1980年にはようやくポールの新作が発表された。題名は『Paul Davis』。1972年にも同じ題名のアルバムが発売されたので、これで二度目の『Paul Davis』だ。エポニマス・タイトルというのは時折見られることだが、普通はレーベルを移籍して再出発を図る時にやることが多い。ポールのように、ずっとバングに居ながら同じ題名のアルバムをもう一枚出すという事例はかなり珍しいことだ。ポールにとっては、長く音楽活動を続けてようやく本格的に売れたことで、心機一転という気持ちがあったのだろう。二度目の『Paul Davis』のアルバム・カヴァーは、相変わらず髭も髪を伸ばしたポールが笑顔も見せずカメラを見つめるというもので、とても地味だ。ポールの清新な心は浮足立ったものではない。ヒット作の次というのは誰にとっても怖いものであって、成功した例も少なくないが、沈んでいった例は更に多い。ポールはかなり真剣だったのだろう、今回ばかりは収録曲9曲のうち7曲が自作曲となっている。「Do You Believe In Love」のみピーボ・ブライソンとの共作で、まだ関係が続いていたことに驚く。アルバムを聴くと、時折これはピーボによるものなのだろうと思う声が入っている。

さて、渾身の新作だが、正直私は印象に残るところが少ないと感じている。聴くのが辛いということはなく、クリアすべき質は全体にわたって保たれている。しかし特別な曲は少ない。前作が素晴らしい曲であふれていたものだから、期待外れの感さえあった。

1曲目であり、シングルにもなった「Do Right」は素晴らしい。前作に感動して、次作はどれほどの出来だろうと思い『Paul Davis』を買い、初めて「Do Right」が流れた時は、前作のクオリティーを維持していることに衝撃を受けたものだ。この曲が最高23位だったとは低すぎるのではないかと思う。歌詞に何度も登場する「He」=神が、聴く人に重苦しく響いたのだろうか。

『Paul Davis』の問題は、「Do Right」に比肩する曲がなかったということだ。「Do Right」に限らず真面目な歌詞の曲が多い点については均質だ。ただ、曲に関しては「Do Right」が突出した緊張感があるのに対して、その後の曲はそれなりに緩い調子に聞こえる。ポールらしい温かみのある曲ではあるのだが、悪く言えば軽薄なポピュラー・ミュージックでもある。シンセサイザーの使い方が特に軽薄で、普通にアンサンブルとして溶け込ませるのではなく、飛び道具として用いているところがあるため、今改めて聴くとかなり時代を感じるのだ。

「Too Slow To Disco」でディスコ調の曲をやったのも意外だった。1980年というと、70年代中盤以降のディスコ・ブームがようやく終わった時期で、なぜ今更ディスコに手を出すのかと周回遅れに感じてしまう。年を取り過ぎたためにディスコ・ビートに合わせることができないという歌詞で、恐らくポール自身による自嘲の曲なのだろう。それにしてもわざわざそんな曲を書かなくとも、と思わないでもない。

後半の記憶はほとんど消えていたのだが、今回何度か聴き返して「So True」はアルバムの中でも異色で、良い効果を放っていると感じた。アルバムのラスト二曲を飾る「So True」「When Everything Else Is Gone」はウィル・ブールウェアによる作曲だ。アルバムの中にアクセントとなる曲を入れる判断は良いものだ。ポールには恐らく書けないだろう曲調だが、実は「So True」こそがアルバム全体を支配する温かみのあるサウンドと調和している。

いろいろと書いたが、悪いアルバムではない。ただし、『Singer Of Songs, Teller Of Songs』以降のアルバムの中では最も売れていない。日本では2016年に『Singer Of Songs, Teller Of Songs』以降の三作が一挙にCDとして再発されたが、2024年現在では『Paul Davis』だけが品切れとなっている。これだけで判断するのは酷かもしれないが、やはり『Paul Davis』がヒット以降の作品としては地味な出来であることの証明にもなっている。

ここまでに6枚のアルバムを発表し、ヒット作も出たポール・デイヴィスだが、日本盤が発売されたのは1980年作の『Paul Davis』が最初だった。それまで日本ではバング・レコードと契約を交わしているレコード会社がなく、ヒット作となった『Singer Of Songs, Teller Of Songs』も発売当初は日本盤が出なかった。ポール・デイヴィスの日本盤といえば、ポールの風貌が洒落ていないという判断により、ジャケットが変更されたことで有名だが、『Paul Davis』はオリジナルのアルバム・カヴァーのまま日本で発売された。ただし、題名は「パステル・メッセージ」となり、爽やかな印象になった。

ここまで、ポールは毎年アルバムを発表することがほとんどなかった。あるとすれば、再録音やカヴァーが大半を占める『Singer Of Songs, Teller Of Songs』が前作から一年後に出ただけだった。1977年発表の『Singer Of Songs, Teller Of Songs』から『Paul Davis』までには三年を要している。長年売れなかったことがあるにしても、ポールは元から多作ではない気がするし、初めて大ヒットが出たことのプレッシャーもあったのだろう。そんなポールが、『Paul Davis』発表の一年後である1981年に新作『Cool Night』を発表した。しかも長年在籍していたバングを離れ、アリスタ・レコードに移籍したのだ。バングよりもはるかに規模の大きいレコード会社だ。アーティストとレコード会社の軋轢はよくある話だが、ポールの場合そうとは限らないらしい。『Cool Night』アルバム・カヴァーの裏を見ると、スペシャル・サンクスとして記された一覧の真っ先に、バングの代表であるアイリーン・バーンズの名がある。

『Cool Night』こそ名実ともに充実したアルバムで、収録曲のほとんどにポールが関わっている。共作を積極的に行っているのは、曲が一本調子にならないようにするためだろう。カヴァー曲は「Nathan Jones」と「Love Or Let Me Be Lonely」の二曲だが、かつての「Darlin'」とは違って、選曲が安直すぎないし、原曲とは全然別のアレンジが施されているところにも工夫がある。「Nathan Jones」はダイアナ・ロス脱退後のスプリームズ、「Love Or Let Me Be Lonely」はフレンズ・オブ・ディスティンクションが歌ってヒットした曲だ。ポールはカントリー出身とは先にも書いたが、実はソウル・ミュージックの香りもある。『Cool Night』で二曲をカヴァーしたことは、ポール自身のルーツの提示のように見える。とはいえこの二曲はどちらも70年代前半のヒット曲で、ポールは既にプロ・デビューしている。まだ大成していない若き日の思い出を懐古していると言った方が正しいだろう。

『Cool Night』に懐古趣味があることは確実で、このアルバムからの最大のヒット曲である『'65 Love Affair』は題名でもわかる通り、過ぎた日を懐かしむ歌だ。ポールにしてはかなり珍しい軽快なビートに乗せられた曲で、過去の感傷と明るい曲調があいまって大ヒットとなった。『Cool Night』からは、表題曲「Cool Night」がシングル・カットされ、最高11位となった。この曲は「I Go Crazy」に通じる哀愁漂う曲だ。セカンド・シングルが「'65 Love Affair」で、最高6位というポールにとっての最大級のヒットとなった。続いて「Love Or Let Me Be Lonely」がシングルになり、これは最高40位だった。このカヴァー曲は、シングル・カットされるにあたって異なるテイクが挿入されており、アルバムで聞けるヴァージョンとは一部が異なっている。

どの曲にも共通するのは、シンセサイザーが全面的に使われていることで、これは鍵盤奏者であるポールならではの采配だろう。前作では突拍子もない、いかにもシンセ・ポップ黎明期のような使われ方だったが、『Cool Night』ではしっかりと楽器として使われており、アンサンブルに溶け込んでいる。そうして得られたサウンドは、次第に電子化が進む音楽業界と相性が良かった。軽薄の度合いで言うと、過去最大ではあるのだが、ポールらしい穏やかな調子は失われていない。

オリジナルのアルバム・カヴァーは、ハンモックに乗って手を頭の後ろで組んでいるポールの顔を大写しにしたものだ。長い髪は後ろでまとめているが、髭は相変わらずだ。これが良くないと判断されたのだろう、日本盤ではまったく異なる写真に差し替えられている。緑色の海に太陽が沈む様子が写されたもので、確かにこれは陶然としたムードが出ていて音楽と合っている部分もある。表題曲「Cool Night」一曲だけで決めたようなデザインではあるが。ちなみに『Singer Of Songs, Teller Of Songs』も後に日本盤が出たが、これのカヴァーも花束のイラストに差し替えられている。オリジナルの、ナザレのイエスを彷彿とする荘厳な佇まいで横顔を見せているポールの肖像も、威厳があって良かったと思うのだが、髭面の若くはない男性というだけで雰囲気を壊すという判断が日本のレコード会社ではあったようだ。

「I Go Crazy」のヒット以降、概ね順調な活動を進めて『Cool Night』で新たな局面を見せたポールだったが、これを最後に二度とアルバムを出さなかった。音楽活動は最低限のものとなり、カントリー・ミュージックに帰った。マリー・オズモンド、ターニャ・タッカーらに曲を提供したり、デュエットしたりするのが時折の活動だった。1972年作の『Paul Davis』がCD化された際、なぜか80年代の未発表音源が三曲がボーナス・トラックとして収録されていた(その内の一曲はマリー・オズモンドに提供し、デュエットした曲)。いずれも悪い曲ではなく、作曲を続けていたことがうかがい知れる。しかし1988年にはほぼ引退状態となり、表舞台に立つことはほとんどなくなった。そのまま復帰することなく2008年には心臓発作で亡くなっている。1986年には暴漢に腹部を撃たれる事件もあったそうで、後半生が気になるところだ。

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