サイボウズ式とわたし「何者かにならないといけないと焦っていたわたしに、『素直に』生きることを教えてくれたサイボウズ式第2編集部」
こんにちは。サイボウズ式第2編集部の有輝士(ゆきじ)です。
昨年(2018年)の7月に第2編集部に参加しました。
「サイボウズ式とわたし」では、サイボウズ式第2編集部のメンバーがサイボウズ式に対しての想いを記載しています。
突然ですが、皆さんは会社の肩書きをはずした時、自分が何者であると言えますか?
サイボウズ式第2編集部に入る前の私は会社の肩書きをはずしたら、何者であるか言えないことがとても嫌でした。
だから、肩書きにとてもこだわり、何になりたいか分からないまま、何者かになろうとただ頑張っていました。
でも、そんな自分を好きになることもできず、満たされない承認欲求と、人と比較して落ち込む、自信がない日々を過ごしていました。
そんな私を「会社人」から「社会人」へと変えたのがサイボウズ式第2編集部でした。
■サイボウズ式第2編集部に出会うまでの私(会社人の私)
ちょっと私の昔話から始めますね。
私は学生時代は決して勤勉なほうではなく、何かに打ち込むこともなく、今思えば無駄な時間を過ごしていました。
特に将来のことも考えずに過ごしてきたため、後悔することも多く、いつも「時間よ戻れ」と叶わぬことを願っていました。
後悔した時からアクションすれば、そこから変わることができたのに、「時間よ戻れ」とだけ願い、何もアクションをしなかったです。
だから、後悔ばかりし続けていました。
そんな私が最初に変わることができたのが、結婚でした。
23歳で結婚し、長女を授かりました。「時間よ戻れ」と思い続けるのではなく、家族のために変わろうと決心しました。
「伝説を作ろう」という、今思うと幼稚なモチベーションで仕事に打ち込むようになりました。
気が付くと、何もアクションをしない私からは卒業することができました。
といっても家族も大事だから仕事と家族の割合は「6:4」ぐらいの割合でした。
そのときは従業員が100名に満たない宮崎の中小企業で働いていました。
働いていた会社は増床が予定されていたので、自分のスキルを向上させつつ、会社に語り継がれるような「伝説を作ろう」という想いは、モチベーション維持にはちょうどよかったです。
会社のファイルサーバとファイルの標準化、英語プロジェクトの立ち上げなどいろんなことを経験しました。
25歳でマンションも購入しました。
記載しながら振り返ると、20代後半までは充実していた日々を過ごしていたと思います。
しかし、20代は社外の人と交流することもなく、仕事以外の時間は家族との時間だったので、私の世界は会社と家族がすべてでした。
つまり私は「会社人」でした。
29歳の時に順調だった私の人生は狂い始めました。
会社でそれなりに実績を出していたと思っていた私は、20代でマネージャーになりたいと強く願い始めました。(当時は20代でマネージャーになった人はいなかったので、初の20代マネージャーになることは「伝説になる」と考えていました)
今考えるとなぜそんな自信があったんだと思います。笑
マネージャーになれると思っていた私は、結果として同じポジションにいた新卒4年目くらいの後輩に負けました。当時の上司から足りないことの説明があったと思いますが、納得できていない私は何を言われたか覚えておらず、言葉にできない感情だけが今でも残っています。
後輩がマネージャーに選ばれたと聞いて、会社近くをただ何も考えずに歩きました。
近くを電車が走る音が聞こえ始めたと同時に、悔しさと会社への不満など複雑な感情が沸き起こりました。そして、会社で認められないなら社外に出ようと、勉強会などに参加し始めました。社外でならきっと自分は認められると思っていました。
この時が私が「会社人」から「社会人」になろうと初めて思った時でした。
幸いにも社外に出たら、宮崎で起業などを行っているコミュニティの人たちと接する機会が増えました。
コミュニティの人たちと接し始めたばかりの時は接しているだけでその人たちと同等になったと勘違いして、居心地がよいと思いました。
しかし、すぐにその考えは変わりました。
会社で認められなかった私はその人たちと比べると何者でもないため、だんだん惨めな気分になってきました。
勉強会では話をしてくれるけど、Facebookで繋がる時は自分からの友達申請、メッセージを送ってもリアクションがないことが普通で、あったとしてもあたりさわりがないテンプレートの返答。
日々アップされるFacebookの「こんなことやりました!」に劣等感を感じ、SNSを見ることがだんだんと苦痛になってきました。
そして、自然と自分の居場所はここではないと思うようになり、逃げるように距離を置きました。
数か月で私の最初の「社会人」への挑戦は終わりました。
「会社人」の私は、マネージャーになれなかった劣等感を払拭するためには、会社で頑張るという発想しかなく、「会社人」としてのキャリアをまた考えだしました。
31歳の時、東京への2ヶ月間の出張がありました。
仕事では実績を自分なりに出していたつもりだった私ですが、会社に認められなかったことを引きずり、自信を持つことができていませんでした。
そんな中、出張時に初めて仕事をする東京の人たちに自分の仕事を褒められました。
「頼りになる。」「安心して仕事を任せることができる。」「中村さんの働きを期待している。」
こんな言葉が本当に嬉しかったです。
この人たちにもっとほめられたいという気持ちが強くなり、仕事の割合が徐々に増えました。
中国シンセンへの3ヶ月出張や社内ベンチャー企画で役員プレゼンまで残るなど仕事が楽しいと思えるイベントも重なったことで仕事の割合がさらに増えてきました。
(中国出張時の現地スタッフとの写真「写真、一番左が私です」)
そして気がつくと、家族との時間をほとんど割かないようになりました。
(ひどい父親だと思います)
でも、仕事で認められたことが当時の私には一番の喜びでした。
仕事と家族の時間は、「10:0」になっていました。
32歳の時、いつも通り深夜にマンションに帰ったら誰もいなくなっていました。
33歳の時、いろいろあって関東に転勤してきました。
私が仕事を選んだ結果、家族がいなくなったので、仕事を徹底的にやろうという気持ちで関東にきました。
だから、社外に出て嫌な思いをした経験があるけど、もう一度社外に出ようと追い込みました。
私の「社会人」への再チャレンジです。
NPOや勉強会などいろんな活動に参加しました。
宮崎での経験上「何者かでないといけない」と思い込んでいた私は、無理して何者かを演じ、背伸びをして、社外の人と接するようになりました。
会社以外の使えそうな肩書を名乗ったり、未経験のこともできると答えていたりした時期もありました。
無理しているし、東京には私より能力が高い「何者かである人」が多く存在したため、宮崎の時と同様に上手くいきませんでした。
勉強会で会った人と企画の話で盛り上がったのに、Facebookで他の人とその計画を実行していた・・・なんてこともありました。
私が送ったメッセージには返信がありませんでした。
「自分は必要ないのか」と感じる場面が何回かあり、自信を失っていきました。
でも、今回はすぐに逃げ出さずに背伸びし続けました。
自分自身では頑張っているけど、誰からも認められないことは本当につらく、しんどい日々でした。
そんな時に出会ったのが、サイボウズ式第2編集部でした。
■サイボウズ式第2編集部に参加した私(会社人から社会人に変わろうとする私)
34歳の時に参加したあるサイボウズ式のMeetupで「第2編集部」のお披露目がありました。
すぐに参加したいと思い、自分ができることを考えずに、ここに属したら、自分が変われると感じて、明石さん(@akyska)に参加したい旨を伝えました。
明石さんは私が参加したい旨を伝えた後すぐに、藤村さん(@saicolobe)やその時の第2編集部メンバーにkintone上で相談してくれました。
藤村さんだけではなく、Meetupで会った人がいたので、その日のうち第2編集部入りが認められました。
本当に嬉しかったですし、明石さんには本当に感謝しています。
第2編集部入りはスムーズでしたが、そのあとが大変でした。
ライターではなく、イベントも実施したことがなかったため、場違いと思う場面が多々ありました。
打合せやkintoneで会話されている内容が分からないことが多くありました。
Googleで調べる毎日です。
Googleで調べることができない飲み会などは会話についていけず、さらに苦痛でした。
自分が生きていた世界と全く異なるので、当然話についていけません。
サッカーばかりをして勉強をしてこなかったサッカー部の中学生が、高校の数学の授業を受けているぐらい分けわからなかったです。笑
しかし、そんな私でもとどまることができました。
それは井手さん(@kei4ide)や長田さん(@SsfRn)や大空さん(@zora_koji)の存在が大きかったです。
打合せ後に日本橋のサイボウズのオフィスから東京駅までを井手さんや長田さんと帰るとき、第2編集部のことなどを語り合ったことで想いは同じと思えて安心し、もう少し頑張ろうと大きな支えになりました。
大空さんは私と同じで異業種から第2編集部に参加していたので同じような悩みを話していたので、私一人が悩んでいるわけではないと思え、安心できる存在でした。
初期にこの3人がいなかったら、第2編集部には顔出さなくなっていただろうなと思います。
そして、藤村さんの存在は絶対に外せないです。
藤村さんと会話した頻度は上記の3名と比べると少なかったです。
しかし、たまに藤村さんと話すと、藤村さんは絶対に私の考えや私のことを否定せずに、私の可能性やできることに目を向けて褒めてくれました。
「ゆきじさんは第2編集部以外にも活動していてすごいですね」
「ぞらさんが登壇したから、次はゆきじさんの番ですね」
「その企画面白いですね。ぜひやりましょう」
藤村さんは第2編集部のメンバー誰もがスポットライトが当たるように常にケアをしてくれていたし、チャンスを与えようとしてくれていました。
言葉で言うだけでなく、実際にチャンスも与えてくれました。
第2編集部に参加して2か月も経たないうちに、私にWasei Salonとの「家族」をテーマにしたイベントに登壇するチャンスが来ました。
第2編集部の中で子供がいる人が少なかったということもありますが、やってみたいという私の気持ちを汲み取り、藤村さんは私に機会を与えてくれました。
初めての第2編集部のイベントでしたが、藤村さんや第2編集部のみんなはダメ出しをせずに、「よかったよ。面白かったよ。」などの言葉を登壇後にかけてくれたことは嬉しかったです。
Wasei Salon×サイボウズ式第2編集部 コラボ勉強会vol.2 〜これからの家族と私のあり方とは?〜
https://waseisalon-cybozushiki2-2.peatix.com/
(Wasei Salonとのイベント時の集合写真)
こんなメンバーに囲まれていたから無理して他と比較しようとせず、背伸びしようと思わなくなりました。
そして、今できることをこの人達のために頑張ろうと思え、がむしゃらにできることを行いました。
誰かに認められたいという想いはなく、この人たちと面白いことをやりたい、この人たちと一緒にいたいという想いでした。
イベント時の雑用、タスクの管理、企画会議の参加など私ができることは限られていることをやり続けました。
そんなある日のイベンと話をしていると、藤村さんから「第2編集部の活動を積極的に行うゆきじさんが第2に入ってくれてよかった」と言われました。
本当に嬉しかったです。
そして、徐々にですが、打合せ時の発言やイベント準備の段取りなどを他の第2編集部メンバーからも褒められるようになりました。
嬉しかったです。
社外でやっていく自信を初めて持つことができました。
一回「社会人」になりそこなった私はまた「社会人」になれるかな?と感じ始めました。
■サイボウズ式第2編集部で得たこと(社会人になった私)
第2編集部に参加して半年ほど経つと、サイボウズ式のイベント運営に慣れ、他のNPOでもイベント企画して実施できるようになっていました。
自信の力はすごいと思います。
第2編集部で実際にイベントを実行した経験、実行した内容に対して褒められた経験により、自信をもって実施することができました。
よく考えたら当たり前ですが、最初からできる人なんていないんですよね。
試しにやったからこそ、自分ができることを理解できるんですよね。
好きな事や興味がある事だからこそ、できなくてももう一回トライしようと思うんですよね。
サイボウズ式第2編集部は、心理的安全性が担保されているので、他と比較しようと考えずに好きな事にチャレンジする場を与えて続けてくれました。
そして、成功する事や失敗する事を考えずに、経験する事を大事にしてくれました。
そのため、焦らずに「社会人」として私は何者になりたいのかを考えることができました。
サイボウズ式第2編集部に参加して1年が経ち、私は「身近な人をサポートする」人になりたいという事に第2編集部で気づかせてもらいました。
いろいろな経験を積ませてもらうことで自信を持つ事ができました。
会社に依存することなく、「社会人」として生きていく自信も持つ事ができました。
今の私は、肩書や何者であろうとすることを気にしていないです。
黒子のように名前はなくても、人格がなくても、他の人を助けるサポートをし続けたいです。
これが、私が素直に生きることだと今は思っています。
私のようにモヤモヤして過ごしている人は少なからずいると思っています。
私はそんな人が自信を持って、素直に「社会人」として生きていけるような手助けをしたいです。
それが今の生き方に気づかせてくれたサイボウズ式第2編集部への恩返しと思っています。
恩返しできるまで、もう少しだけサイボウズ式第2編集部にいさせてもらおうと思います。
(サイボウズ式第2編集部の集い後の飲み会にて)
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