小さな街で生まれ、育ち、実父を受け入れられなかった悲しみ

42年前、この街で生まれ、そして、育った。

幼少期は、辛いことの方が多く、出来ることなら、家族という名ばかりの形から、逃げ出して、抜け出して、どうにでもなりたかった。


自分が不遇だと感じると、街の景色も、周りの友達も、やけに幸せそうに映り、自分がどんどん萎縮するもので、思えば、自分のコミュ障の所以は、ここにあるのかも知れない。

適当にやり過ごすとか、関わり合いを持たないで生きることは可能でも、それは、孤独以外の何物でもなく、生きていないに等しい。

孤独が、よく好きで、群れないで行動していると、小さな街では、色眼鏡で見られる事が多い。

メンタルを病む前も後も、かなり色々言われており、非難というよりも、大多数の人と同じでなければ、気持ち悪いという意識が、自分より上の世代では、一定数存在しており、そこにハマってしまった感じだ。

母親が心を病んで、暴れ出した時、警察が出動したりという事が度々あったが、もうその場合には、単純にモンスターを見るような眼差しであり、起きている事象を上手く説明できない自分に対しては苛立ちしかない。

化け物の子供というレッテルを貼られ、20歳ぐらいには、生きづらさすら感じていた。

苛立ちを常に感じるほどの、言われようだったが、自分の信念は、とにかく、笑って、笑顔で、何でも語り合い、飲んだり食べたりして、楽しい時間を共有すること。

そこに、地位や立場、性別、考え方、年代など関係なく、生きているということに、まずは感謝して、同じ時間を行くもの同士、生の価値を分かち合いたい。

そのためには、自分は、話をして、全て分かってもらわなくても構わないから、まずは笑って、そして、笑顔で居てもらうために、心を、自分で温めたり、時には、誰かを励まして、良い相互作用を生んで行きたいと思っている。

生きる価値観が違う場合、ずっと平行線の場合もあるが、それは、それで、誰が不幸の一番を決める大会ではなくて、様々な人の苦労や辛い体験を知ることが、自身の考えを広めるきっかけになるため、メンタルの悪化に至った経緯や、辛い過去も、なるべく聞くように、心掛けている。


人の数ほど、生き方があるのなら、辛い経験も様々。

価値観が違うからと言って、避けてしまうのは、実に勿体ない。その、勿体なさを、自分や母親を避けてしまった方々にも、感じて欲しかったが、そこは非常に残念。

母にも、自分にも、良いところは少しはあったと思う。

そこで、伝心出来なかったことは、非常に悔やまれるが、諦めたら、自分にも負けたように思うので、今後も、自分の信念だけは貫きたい。

母がメンタルを悪化させた要因は、やはり、自身の幼少期にあったと、確信している。

幼少期は、実父の暴力がエスカレートしており、誰にも、誰もが、止めようとしなかった。

母が頭から血を流し、家族の涙を平気で踏み躙る、姿がそこにはあった。

はっきり言って、恐怖以外の何物でもなかった。

自身も、暴力によって、小学校2年生時に、腕を骨折して、難儀したほどだった。

今の言い方で言うところの、反社というものだったが、40数年前は、平気でまかり通っていた。

借金も数千万作り、高級車を何台も購入し、泥酔して、車を飛ばして、ガードレールを高笑いしながら、擦って走っていたのは、今でもはっきり覚えている。

もう終わりだと思った。
何もかも。


ただ、小学校3年生時に、そこを逃げ出し、この街の中で、転々とした。
逃げ回るように、引っ越したが、なぜか居場所は突き止められ、ことごとく、希望は打ち砕かれた。

転々としていたため、友達にも恵まれず、そこで、素行不良の要素が、身についてしまったかも知れない。

それでも、自分を慕って、付き合ってくれた数人の友達は、本当に有り難く、当時、『にしや』や『こうが』という名前のお店へ、小学校低学年ではあったが、歩いて遊びに行き、流行りのおもちゃを買って、遊んだのは、宝物のような思い出だ。


小学校4年生で、悪しき関係は断ち切られ、
母と僕の、極貧時代が始まったが、その話は、また次回に。

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