1月 24 | 一年で聖書を: 出エジプト記9-11 ; マタイ15:21-39

出エジプト記9:去らせなかった
      10:行くのはだれとだれか
                  11:区別
マタイ15:21-39:信仰(子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます) 

●この「四千人の給食」の奇蹟は、「七つのパンの奇蹟」とも「第二のパンの奇蹟」とも言われます。「第二のパンの奇蹟」と言うのは、「第一のパンの奇蹟」があるからです。それは「五千人の給食」(マタイ14:13~21)です。「五千人の給食」はユダヤ人に対するものであったのに対し、「四千人の給食」は異邦人に対するものです。その違いを詳しく列記することができますが、メッセージの面からすると決して有益とはなりません。例えば、「五千人の給食」の場合、残ったパン切れの余りを集めると、12のかごがいっぱいになったのに対し、「四千人の給食」の場合は、残ったパン切れの余りを集めると、7つのかごがいっぱいになったと記しています。しかし、前者の「かご」は「コフィノス」(κόφινος)と言って、一人用の弁当分が入るかごのことであり、後者の「かご」は「スプュリス」(σπυρίς)と言って、魚を捕るときに使われる網のかごです。パウロがダマスコから脱出するときに、城壁から彼を乗せてつり下ろされたかごです。同じ「かご」と訳されていても大きさがかなり異なります。ですから、残ったパン切れの量がどちらが多かったのかなどを知ったとしても、この奇蹟の意味を正しく理解できるとは限りません。重要なことは、見える部分ではなく、見えない部分なのです。使徒パウロはこう言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書4章18節
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

●「五千⼈の給⾷」にも「四千人の給食」にも等しく共通することは何でしょうか。それは「人々はみな、食べて満腹した」(14:20, 15:37)ということです。イェシュアの与えたパンとは、「天からのパン」を象徴するもので、私たちが目にする物質的なパンではありません。事実、「目に見えるパン」を群衆は食べたのですが、それは目に見えないパンの陰の出来事なのです。本体は「朽ちることのない天からのパン」、すなわちイェシュア・メシアというパンを「食べる」ことなのです。「食べる」ということについても目に見える「食べる」ではありません。「食べる」という行為に隠されている真の意味は、「ひとつになる」ということなのです。つまり、イェシュアと「ひとつになる」こと、これが「給食の奇蹟」が意味することなのです。

●「五千人の給食」の奇蹟は四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がこぞって記していることなのです。ということは、この奇蹟が持っている真意はとても重要だということになります。それはユダヤ人に対する「五千人の給食」の奇蹟の後に語られたように設定されていますが、異邦人向けの「四千人の給食」の奇蹟が意味することと本質は何も変わりません。最後の福音書と言われるヨハネの福音書は、イェシュアご自身がこの出来事の真の意味を語られたその内容を記しています。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?異邦人の「癒やし」と「四千人の給食」

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