2月 15 | 一年で聖書を: レビ記17-18 ; マタイ27:27-50

レビ記17:肉のいのちは血
         18:裸、忌み嫌うべきこと
マタイ27:27-50:葦の棒

(3) 王の杖(葦) 
29節 「右手に葦の棒を持たせた。」

●王の権威のしるしである笏の代わりに、右手に葦の棒を持たせました。また葦の棒でイェシュアの頭をたたいたとあります(30節)。葦は弱く折れやすいものですから、それでたたかれても痛くはありません。むしろそれは嘲(あざけ)りの行為です。「葦」はヘブル語では「カーネー」(קָנֵה)です。神の視点からするならば、葦は神の不変の基準をあらわす象徴であり、神のことばそのものです。イザヤ書の神のしもべの歌には「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う」 (イザヤ42:3) とあります。「傷んだ葦を折ることもなく」とは弱った人々をいたわるという意味ではなく、堅く立つべき神のことばをしっかりと立て直すことを意味しています。また「くすぶる灯芯を消すこともなく」とはパラレリズムで、神のことばを鮮明に照り輝かせることを意味しています。この使命のために、神のしもべなるメシア・イェシュアは軋轢と辱めの中にあっても、その「さばき」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)を、すなわち神の統治を確立するのです。しかもしもべはその目的のために「衰えず、くじけない」のです。やがてメシアなるイェシュアは「鉄の杖」(詩篇2:9)で国々を統治することになりますが、「葦の棒」の中にも神の定めとしての統治が隠されているのです。

●このように、ローマの兵士たちが知らずに行った嘲弄的行為―「王の衣(緋色のマント)」、「王の冠(茨の冠)」、「王の杖(葦の棒)」―の中に、天の御国におけるメシアの統治のメッセージが秘められているのです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?嘲弄されるイェシュア

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