1月 29 | 一年で聖書を: 出エジプト記21-22 ; マタイ19

出エジプト記21:償
      22:償い、ささげる
マタイ19:天の御国、永遠のいのち

4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」

イェシュアの解釈は、

①「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』た」ということ。
②「彼らはもはやふたりではなく一体」であること。
③「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」ということ。(これは創世記にはありません)

●これこそが神の創造の理念であり、神のご計画の究極的目的なのです。男と女が結婚するということには、神と人、神である主とイスラエル、キリストと教会の関係も含めた壮大な計画が込められており、「たかが結婚、されど結婚」で、結婚の秘儀は神の壮大なご計画の中心にあるものなのです。

●パリサイ人たちは「離縁する」ことを現実の問題として、当然としながら、それが許される理由について質問し、その論議の中にイェシュアを巻き込もうとしていたのです。ところがイェシュアはその論議に巻き込まれることなく、むしろ、神のみこころとしての結婚の秘儀を取り上げようとしています。そして、「あなたがたは読んだことがないのですか」と切り出しています。これは質問ではなく、叱責のことばです。イェシュアは創世記1章27節と2章24節のみことばを結びつけて、「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」と答えられました。当時のラビたちの解釈法では、「より古い箇所ほど重みを持つという原則があったようです。そこでイェシュアは「はじめの時から」と言って、つまり創造の時点からという意味で、しかも永遠の神のご計画における結婚の概念で説明されたのです。なぜなら、御父と御子とのかかわりは永遠に一体であり、神のみこころが天にあるごとく、地にもそれが実現されるために人を造り、男と女を造られたからです。

●ところがトーラーを教えるパリサイ人たちは、自分たちの身に起こる問題についてのみトーラーを解釈かることに終始し、神のご計画については全く無関心であり、神の事柄の本質を見失っていたのです。これは現代の私たちにも起こり得ることです。目の前にある問題に心が向いてしまい、神が何をしようとしておられるのかを見失ってしまうのです。神が本来、創造においてなそうとされたみこころが、たとえ罪によって妨げられたとしても、「彼らはもはやふたりではなく一体」となることが神のみこころであり、神が必ず実現されるご計画なのだという信仰を堅くする必要があります。そうした意味において、イェシュアが「神」、あるいは「神である主」と言い方ではなく、「創造者」と言われたことは要を得ているのです。

●結婚式で、結婚宣言として語られる「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」というフレーズですが、そこにある「結び合わせた」(συζεύγνυμι)という語彙は「共に」(「スン」συν)と「くびきを負う」(「ゼウンヌュミ」ζεύγνυμι)の合成語で、「くびきを共にする」という意味です。これに相当するヘブル語は「ハーヴァル」(חָבַר)で、幕屋で使われるいくつかの幕を「互いにつなぎ合わせる」という箇所で使われています。それは神が結び合わせて一つにすることを啓示しています(出エジプト26:3~6)。マタイ11章28~30節もイェシュアと「一つになる」という結婚の秘儀を語っているのです。

【新改訳2017】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?「神が結び合わせたものを引き離すな」
3. 弟子たちの反応

●イェシュアの離縁に対する解釈を聞いた弟子たちの反応を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書19章10~12節
10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
12 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」

●イェシュアの結婚観は厳格なシャンマイ派以上のものであったゆえに、弟子たちはついていくことができませんでした。その反応が10節のことば、「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」に言い表されています。当時のユダヤ人たちの中で結婚することは当然でした。ですから、弟子たちは自分がたとえ離縁するつもりがなかったとしても、離縁できるという権利は必要だと考えていたのだと思われます。しかし、その弟子たちのことばに対して、イェシュアは「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。」と述べています。

●「そのことば」とは、「結婚しないこと」、つまり「独身でいる」という意味であり、イェシュアは「独身でいることは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。」と述べています。話題が、結婚しない者、独身者に移っています。独身でいることは決して簡単なことではなく、「それが許されている人だけができるのだ」とイェシュアは言っています。しかも、独身者であることを許された者たちには、以下のように、三つのパターンがあることを述べています。

(1) 生まれつき独身者として生まれついた人たちがいること。
(2) 人から独身者にさせられた人たちがいること。
(3) 天の御国のために、自分から独身者となった人たちがいること。

(1)の場合が考えられるのはどんな人のことでしょうか。「生まれつき」とありますから、おそらく性的な能力を持たない人だと考えられます。(2)の場合は、使徒の働き8章27節に登場する宦官のことです。そこでは「エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた」とあります。新約ではこの箇所限りですが、旧約では王宮には大勢の宦官たちがいたようです。(3)の場合は、イェシュアを筆頭に、パウロが相当します。旧約では預言者エリヤ、エリシャ、エレミヤなどがそうです。キリスト教の修道院における修道士、修道女たちも同様です。それは神の働きのために独身であることを自ら選んだ人たちですが、そうした人がより優れているというのではなく、「それを受け入れることができる人は、受け入れなさい」と言われているのです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?「神が結び合わせたものを引き離すな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?