1月 26 | 一年で聖書を: 出エジプト記14-15 ; マタイ17

 出エジプト記14:栄光を現す
       15:歌
マタイ17:エリヤ

https://japanese-odb.org/2022/01/26/本当の幸福/

「マラの出来事」(15:22~27)は、紅海渡渉という前代未聞の出来事を経験して主への賛美をささげた三日後のことで、マラというところに来たとき、「マラの水は苦くて(מָרִים)飲むことができない」ということで、民はモーセにつぶやいたのです。「マラ」の語源は「マーラー」(מָרָה)で「反逆する、不従順になる」ことを意味します。
24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。
25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示された(יָרָה)ので、モーセはそれを水に投げ入れた(שָׁלַח)。すると、水は甘くなった(מָתַק)。その所で主は彼に、おきて(חֹק)と定め(מִשְׁפָּט)を授け、その所で彼を試みられた。

25節に「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」とあります。苦い水を飲める水に変える方法として、主はモーセに一本の木を示しています。この「示す」というヘブル語は「ヤーラー」(יָרָה)で、本来は「投げる」という意味ですが、そこから「示す、教える、指示する、方向づける」という意味にもなり、「律法」を意味する「トーラー」(תּוֹרָה)の語源です。つまり、神が示したこの一本の木とは「トーラー」を象徴しているのです。「トーラー」は神が人に示すみおしえであり、神の民が神の民としてふさわしく生きていくために無くてはならない道標です。
モーセに示された「一本の木」が、苦い水を甘い水に変えたのは、神の「トーラー」に従って生きることが、神の民としての喜びとなることの「型」と言えます。それは神の民が烏合の衆とならないためです。「甘くなった」と訳された「マータク」(מָתַק)は、神と神の民の関係が楽しい快いものとなることを意味しています。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?生存の保障

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