多数派は必ずしも優れているわけではないと気付いたのは中学生になってからだった。一般的には早かったが、自分にとっては遅すぎた。

 小学校高学年の時の話である。合唱の練習中に笑われたのだ、「お前の歌い方変だぞ」と。多くがそれに賛同した。どうやら自分の歌い方は「変」だったらしい。
 当時の自分はクソポジティヴ自己中ゼロメモリーモンキーだったので、あっそう、とだけ返して歌い方を変えることは別段しなかった。歌うことが大好きだったので、歌えたらそれで良かったのだ。まったくおめでたい奴である。

 中学生になってもまだ合唱練習はある。そこでやっと気付いたのだ。「お前らが地声で歌ってるだけじゃねえか」と。
 詰まる所、多くが地声で歌う中、自分だけが裏声(詳しくないがオペラに近いと思っている)で歌っていたので周囲から浮いていたということである。自分が優れていたとか多数派の人々が稚拙だったとかそういう話をしているわけではない。自分は笑われるほど異様なことはしていなかったという話なのだ。

 小学生当時の自分がクソポジティヴ自己中ゼロメモリーモンキーだったお陰でこの歌い方は失われなかったわけだが、人前で何かする時に「変だ」と笑われることに関しては少しずつ臆病になっていった。因みに現在はもう諦めて開き直っている。
 笑う人々も笑われる人々も、「みんな」というのは案外狭いコミュニティであり「変」というのはその狭いコミュニティの中の閉鎖的な習慣に沿っていないだけだということを生まれ持って知っていたら良いのに、と思う。

 今日の日記

 今週中に提出の原稿データが入ったUSBフラッシュメモリをどっかに失くした。やべえ。これはマジでヤバいやつ。部屋がゴミ屋敷すぎて見つかる気がしねえな〜〜!!!!!!!!!! ということでチョコモナカジャンボを買って食った。こういう時は暴飲暴食に限るのだ。




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