discommunication (現代語訳)


先日の投稿(下記リンク)の現代語訳です。
非常に個人的語録・独自の文法が多かったため、備忘録として機能しないという考えが半分、気晴らしが半分として推敲してみました。

内容は全く同じですから、先日の投稿でご理解いただけた方は読む必要がありません。
あるいは現代語を現代語訳するという、一種のエンターテインメントとしてご高覧いただければ幸いです。

↓個人的語録・独自の文法が多い版



(以下、現代語訳)


これは日記ですので、悪しからず、どうかご気分を害されないようご自衛お願い申し上げます。
単なる日記なので手帳に書いても良かったのですが、近い将来に自我を失う嫌な予感がしましたので、公開文とさせていただきます。ご了承ください。

最近は常に「早く楽になりたい」→「得意分野さえ発揮できないなら、存在そのものが資源の無駄では?」→「死ななければ、早く。なるべく早くご対応願います(英語で言うところの "ASAP")」という思考に至ってしまいます。体調不良も続き、夜中から朝方まで急な吐き気におそわれ、やはりその度に前述の思考に至ってしまうというわけです。こういった一方通行的に悪化していく状況は、推しが死ぬタイプのオタクの自らとしても、自分がその目に遭うのは正直嫌なもので、しかしそれが現在現実になってしまっています。暴言のひとつも吐きたくなります。社会ではなく私だけが悪いという話なのでしょうか。家の中でずっと一人で暴言をぶつぶつ吐いていますが、それくらいはどうか許してください。もし近隣の方々が怯えているのなら、私には無論謝罪する気持ちがあります。

飲酒や頓服薬の服用(本来これが無意識にでも重なってしまうことは非常に良くありません。誰よりも未成年飲酒を嫌がった私ですから、むしろ最も自らの現状を責めているのは私でしょう)で、先程申し上げた「死ななければ」という焦燥が浮かばないようにして暮らしております。これは自宅での常態に限りますが。
もちろん私も仕事や日常生活において外出するときもありますから、その際まで酒気を帯びるわけにはいきません。代わりに、常に自らの腕や手の甲に爪を立て続けることで五感を含む思考の全てを逸らしています。これが結構力強く行っているので、正に血の滲むような「力尽くの」対処方法なのです。信じられないような話かもしれませんが、通勤中・勤務中・休憩中・退勤中、お買い物などを含む日常生活のための外出中、通院中(無論家を出てから帰るまで)、ほぼ毎日これを発作的に行っています。私とてこの現状を健康的とは微塵も思っておりませんが、私のような存在が社会で暮らすためには、どうやらこれが最適のラインらしいです。
今申し上げた「最適のラインらしい」という言葉が、客観的事実とは大きく異なることは認識しています。しかし(決断を大きなストレスとするので)現状をだましだまし続けていきたい私としましては、爪を立てる行為が最も安全で、周囲に悟られない低リスクなものだと考えているのです。まずもって私はかなりの深爪ですし、皮膚もかなり丈夫ですし、異常なまでに傷の治りも早いからという理由です。本当に死への焦燥は発作的に現れるので、咄嗟に理性を守らなければならず、かつどこにどういった傷痕があればどうレッテルを貼られてしまうかくらいは理解しておりますから、現状「最も適しています」。
そもそも体調も良くないので、精神的なものとは別にそれもストレス要因ではあります。特に最近(日にち感覚のないもので正確には分かりませんが)は体調も悪化し、漠然とした希死念慮というより「死ななきゃ」という確固たる義務感が毎日発生してしまうのでしょう。そうだとすれば、体調不良の方が先に解決すべき問題かもしれません。
なんとか体調不良だと思わず精神の不調だと思うことで日々をこなしておりますが、客観的に見て、夜中から朝方にかけて常にある強い吐き気(出勤さえしてしまえば大方午後には改善することが多いのですが)、慢性的な消化器官の不調は「体調不良」と呼んでも間違いはないと理解しております。人間はどの程度の不調から病院に行くべきなのか、明確な基準が未だに分かっていません。ただでさえ出不精な上に外出への(先述した)不安もあり、休日に様々な病院に向かうほど気力も体力もないような状態です。私とて、これでは悪化するばかりとさすがに認識しています。

強く慢性的な心身の不調があるのなら当日欠勤や休職などをして、休養や通院、あるいは入院すべきだという話はごもっともです。しかしながら、それを私から申し上げられるほど人数に余裕のある職場ではないわけです。この人数問題は切実で、本当に比喩ではなく、私一人がいたずらに当日欠勤や休職してしまえば部署ひとつが諸共停止して売上がゼロになってしまう可能性すらあるわけです。実際は他の誰かが穴埋めをしてくれるなどして、何とかなるのかもしれません。しかし他ならぬ私自身が、新卒1年目で次々と同期が倒れてゆき、互いが互いを責めることもできず、私自身も身を崩しながら何とかひとり社会に残って穴埋めをし続けている社員であるわけです。私が存えたのも、単に肉体が丈夫で、不器用すぎて自死すら上手にできず、他人の顔色を窺って好く振舞うことに慣れていたという偶然にすぎません。このような存在は幸運で稀有なのかもしれませんし、よしんばそうでなかったとしても、他人に同じ苦しみを与えられるかというと良心が痛むわけです。そこで良心や理性が勝ってしまうからこそ、こうなっているのかもしれませんが。私には私の矜持が生意気ながらございますので、ご承知くださいますよう。

現在は、「酒気帯び勤務ができるなら、もう少し元気に働けるんですけど(笑) まあそうはいきませんよね(笑)」といったようなことを言って、職場では不調を気取ったキャラクター(いわゆるファッションメンヘラにあたるのでしょうか)として、もう背後に迫った心身の死と冷や汗を隠しながら働いております。しかしファッションメンヘラと呼ばれる存在も定義が曖昧で、私は気取っているのではなくそのものなのかもしれません。何にせよ日常生活などに不安を感じているような人々を安易にラベリングし、まるで詐病のような扱いで済ませてしまうのは社会のあり方として正しいのか疑問に思うことはあります。ただし、傷の舐め合いができる状態で踏み止まっている人々までケアしきれるほど、社会的インフラが足りていないことも理解しています。その支援を個人でできるような人間で、欲が絡まず行えるのは今本当に稀な存在なのです。そういった社会を早く破壊してしまうか、もしくは私がただ死ぬか、その焦燥が日々襲い来るわけです。
実際自宅では、常に「死にたい」だの「死ななきゃ」だの呟きながら、自らの丈夫な肉体を叩いたり布団の上で転げ回ったりしています。程度としても頻度としても、限界がくるのは時間の問題だと皮膚感覚で察しています。自らでできる対処として、とりあえず「今苦しんでいるのは全くの別人で、"自分"は本当はこの世に存在しない。思念体のような"自分"が他人の煩悶を隣で見ているだけなのだから、勝手に"共感して"死のうと思う必要はない」と思い込むようにしています。これが精神衛生的にあまりよろしくないことも理解していますが、幼い頃よりこの方法で不安などを解決してきたのですから、すぐにできる慣れた手法はこれしかないことをご承知ください。
経験則からも、本気で、切実に、心身か理性の崩壊が秒読みになっているのを感じます。健康の崩壊ならまだ好く、精神なら社会復帰に五年間程は要するでしょうし、理性の場合は死か犯罪かの二択です。私の主義からして理性は最後まで手放さないようにありたいのですが、そうあれなかった場合の精神的ダメージは凄まじく、それこそ何とかして自死を選ぶでしょう。最悪のケースでも、「交番の前で、意思疎通不可能な状態で肘を見つめ続ける」などの、他人になるべく不安や危害を与えない奇行で確保されるというようなものであってほしいです。また、つまるところ意思疎通が不可能になる可能性をもってして、私は現状を備忘録として残しているわけです。

残念なことに、現在の様々な不調は、どんなに良い思いをしたとしても別箇の発作として発生してしまいます。おそらくホルモンバランスともあまり関係はなさそうです。
また、自己肯定感がそもそも高いため、他者の励ましが全く効果をなさないのも厄介なものです。心理療法が私に合わなかったのも、もしかするとこれに因るかもしれません。本音と建前はあれど主観と客観の判別がある程度つき(ついていないのなら大人しく自らの不健康を認めます)、他者の評価を気にせず、文字通りの自己肯定感が高いのですから。
ただ、現状ある様々な不調により、自らの得意なことが十分に行えないので、自己肯定感とは別に「それなら自分は資源の無駄では」という思想に至るわけです。得意不得意の差がかなり激しい存在の得意が発揮できない場合、平均点かそれ以下の存在になってしまうことは明らかです。そして今の自分は、かなりの割合の時間、そうであると仕事量などからも如実に分かってしまいます。
特に近頃激化する不調で、自分の仕事に関して不満を持たれている可能性があることに無論罪悪感を覚えています。しかし元より不器用な私が不調によってミスを連発して尻拭いまで発生させてしまうよりかは、「仕事のできない存在」である方が幾分か好いと考えております。とりあえず無理にでも出勤し、最低限の仕事だけは何とか行い、それ以上の仕事はできないものの、人員不足の不安だけは解消されるような存在──それになることが、現状行える最大限で職場の損失の最小限だと思っております。職場側も、こういった状態になった社員は休職させるか退職させるかしたいだろうと思いますが、前述の通り切実な人員不足には抗えず私を雇用し続けているのでしょう。仕事のできない存在を雇い続けるか、辞めさせて新しく人員を募集採用し教育するか。後者の方が長い目で見ると得なのですが、その損切りができないほど職場も職場で切迫した状況なのです。誰もが誰をも恨めない状況に、暴言の先は自らか社会(つまり自宅の部屋の壁)になってしまいます。

色々と申し上げましたが、近頃の生活はこういった感じです。
代わりはいくらでもいるという言葉は皆様方の自尊心を酷く傷つけます。しかし、翻って「自分が休んだところで問題はない」と軽く受け止めて、どうか気楽にお過ごしください。
とにかく、私は動かなければなりません。出勤日はもちろん、休日もトイレにくらい起き上がらなければなりません。気合いを入れて上体を起こし、腕に力を入れてそこから下の肉体を引きずり起こし、"別の自分"が背中を突き飛ばし続けてくるかのように推進力でもって歩き、会話だけで息切れしながらも素知らぬ表情を装い、自らの腕に爪を立ててみみず腫れを作りながらも就業時間をただこなさなければなりません。一歩でも外に出てしまえば、お買い物でも通院でも、他人に不安や危害を加えないよう、これもまた素知らぬ表情をしつつ文字通り必死で理性を保たなければなりません。帰宅して飲酒をすれば、やはり「早く楽になりたい」「意味のない生活、意味のない存在にかける資源などない」といった思考ばかりになりますが、翌日も人員が足りないので(無論人員が足りていても社会人として)出社しなければなりません。適切な時間に床に入り、適切な睡眠時間を得なければなりません。どんなに酷い吐き気でも寝なければならないし、睡眠薬を飲んでも吐いてしまうなら意味がないので、薬を使わずに眠らなければなりません。などと考えているうちに日付も変わってしまいそれもまた溜息の種ですが、とりあえず出勤だけでもしなければなりません。という今日日珍しい"スパルタ先生の別人"を真横に用意して、これらを全て繰り返し言い続けて過ごしています。文字通り鞭打って暮らしているわけですから、限界がくることはとうに分かっております。これがどれだけ馬鹿げていて不健康な生活かは、今目の前でじっと私の目を見続ける"自分"が、常に問うてきています(これは比喩的でもありますが、この"自分"は私の理性そのものを意識するために具現化したものですから、たまに実物が見えかけることもあります。これもまた限界を察する兆候です)。

事情も知らず勝手に滅多なことを申し上げるものではないと理解しておりますが、人生はいわゆるレールから外れても何とかなります。私とてその点においては恐れておらず、ただ他人の生活を破壊してしまうことだけへの不安が、ここまでのものとなっているのです。私は破壊することやされることに大きな不安を覚えますが、結局のところこれも悪循環で、既に不安の域を超えて単なる疑心暗鬼と化しているのかもしれないという自覚もあります。そこまでになってしまうと、薬物よろしく自らではブレーキを踏めません。皆様におかれましては、(意図を伝えるためあえて強い言葉を用いてしまいますが)チキンランを愉しむおつもりでなければ、どうか道のある場所で踏み止まってくださいませ。
というのも、結局のところ現在の私の行いは、自己犠牲というより単なる自傷行為の延長です。つまり、(幼少期に他人を傷つけてしまったなど)全く関係のない過去の過ちに対して、「私は懲役を自ら科している」という自分勝手な理論で、もう謝ることもできないことを自分の中で解決しようとしている独善的行為に過ぎません。本来はもっと早く、本当の対象へ贖わなければなりませんでした。それが成らないのなら、何をどこまで行ったところで、まだ足りないという不安や焦燥に駆られるだけです。頭では分かっていますし、本当に馬鹿馬鹿しいというその一言に尽きますが、半ば自暴自棄になっていますから私は死ぬまでこれを自らの美学としていきたいと思っています。別段美しくもないですが、個人の美学と称してしまえばみだりに侵害できない、それが分かっていての小賢しい判断です。

何度も申し上げますが、それほど切実に、皆様におかれましては、私のような不健康な生活や思考回路の一切を決して真似しないでください。事故的になぞってしまうことは致し方ないですが(それでも早めの適切な対処をおすすめします)、これをひとつのモデルとして取り入れてしまうことは破滅しか招きません。この警鐘は本当に、社会への無意味な贖いではなく、私の理性での親切や祈りであり、この文章を他者に公開することで社会貢献できるたったひとつのメリットとして申し上げております。どうかこれを鼻で笑えるほど健康的な生活をお過ごしくださいますよう。





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