立春


 近頃時折Sのことを思い出す。Sは幼稚園・小学校・中学校と一緒だった男だ。中学校では部活も一緒だったし、小学校高学年から中学校卒業まで通っていた学習塾でも同じクラスだった。違う高校に行ってからは数度遊びに行ったきりで、互いの様子は親同士の会話をもってしてしか知り得ない。一浪して志望校に行ったらしい。
 Sは絶妙な音痴だった。言葉で表すのは難しいが、笑えるレベルの音痴だった(よく一緒に遊んでいたメンバーの中には笑えないレベルの音痴もいたのだ)。田舎の中学生高校生の遊びといえばたかが知れていて、やはりそれはカラオケであったから、自分達はよくカラオケに行った。
 幾度となく行ったものだが、Sがよく歌っていた曲などを思い出すことはできない。しかし一曲だけ覚えているのは松任谷由実の「春よ、来い」である。かなりの違和感と少しの哀しみをおぼえた。真面目で冴えないいじられキャラのSがそれを歌ったこと、それを聴いて上手くもないのに泣きたくなった気持ち、………………(中略)これほどまでに不器用で清らかに哀しいものが人生になかったものだから、自分は未だに忘れられない。罪は人に無く行為にあるのだとしたら、美もまた瞬間にあるのだと理論無く感じた。Sはどこでこの曲を覚えたのか。

 思い出はいつでも美化される。合唱コンクールでSがクソ真面目に歌った中島みゆきの「ファイト!」、もう声も思い出せない「春よ、来い」、きっとまた聴いたら自分は笑うのだろう。Sは笑えるレベルの音痴なのだから。

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