あれがリバティー(ユートピアのパロディー)

5月12日(水)


 実家の犬が死んだ。今月で14歳になるはずだった。今年はもう、狂犬病やフィラリアの予防接種は必要ない。

 昨年はコロナ禍と卒業制作、引越しによるあまりの多忙に帰省できなかった。夏に帰る予定だった。
 犬の具合がいよいよ悪く、来月に帰る予定にした。どう休日をやりくりすればゆっくり帰れるのかを考えていた。
 本当に危篤状態なら先週帰る予定だった。一度それを考えたが犬は体調を盛り返し、投薬次第で何とかなるかもしれないと言われた。それも今週になって怪しくなってきた。先週に来た自分の生理は、帰る前日になって都合良く終わった。
 母親の予定では、自分が帰ってきた時点で無理に生きさせる点滴を止め、最期を家で過ごさせる予定だったらしい。今日明日は大丈夫だと思ったのにどうして、という苦笑いも最早意味を持たないわけである。

 空港に迎えにきた母親と動物病院に見舞いのために直行している途中で、急変の電話が来た。あと10分ほどで着くという頃再び電話が来て、心停止を知らされた。
 蘇生措置を続けるメリットがなく、これ以上は肋骨を折る恐れもあった。自分はいつも通りである必要があった。

 「まだ目が開いているね」と母親が言った。死ぬ生き物は必ずそのとき目を閉じるとは限らず、むしろ苦しんで目を開いていたのかもしれない、とは言わなかった。
 「お気に入りの先生と看護士さんたちのそばが良かったんだね」と母親が言った。死ぬ時期は選べず、むしろ先週から無理して生きながらえていたのかもしれない、とは言わなかった。
 点滴を続けていた肉体は未だ温かくて柔らかく、死んだんだなあと思った。この犬が体調不良だった時期を自分は知らない。

 担当医に「お世話になりました」と言って微笑んで、申し訳ないと思いながらもマスクを外して涙を拭った。かつて自分が入院したとき、姉が初めてくれたハンカチだった。姉はいつも自分から奪ってばかりで、それは使い古されて縁がほつれていた。
 保険の残り回数を考えてくれたのかな、久しぶりに(自分)に会えると思ってテンションが上がり過ぎたのかな、お昼に行くと言ってお昼過ぎと言わなかったのがダメだったのかな、と母親が言った。それらは全てどうしようもなかったことであると言いたかったが、やんわりと優しい嘘で肉まんみたいに包んでいくつかの言葉を渡した。悲しみなどないと思われても、それが優先事項だった。動物保険は回数制だとかより悪い未来の可能性があったとかいうことは、犬が死んだ今となっては全く関係がなかった。

 死んだ犬は綺麗に洗われ、白と緑と青の小さな生花を抱かされた。真新しい白いタオルに寝かされた犬は、まさに死んでいた。
 後部座席に寝かされた犬を気遣ってゆっくり走る車は、一度急な赤信号で止まった。自分が空港で買ってきたお土産もあって犬の位置は変わらず、それに何らかの慰めを覚えた。かつてこの犬を買って帰る途中、母親が急ブレーキをしまいと赤信号を無視して警察に捕まったことを思い出した。自分もあれから年をとったのだなあと思った。

 実家に戻った犬はかつてのベッドに寝かされ、かつて好きだった菓子類等を置かれた。今朝はヨーグルトを舐めたのだという。最期は際限なく許された菓子類を食べ、舌が肥えるほどであったらしい。好物はビタミンカステーラ(北海道名物)だった。
 腹の下に大きな保冷剤を置いた。そうすると良いらしいと母親が言っていた。犬が近いうちに死ぬであろうことは分かっていたのだろうなと思った。徐々に硬くなってくる犬は、先刻抱き上げてぐにゃりとしていた頃より余程安定してきたようにも感じられた。力無く寝ているときの犬を自分は知らない。
 車内で散々に言ったのだが、次に会うときは骨だと思っていた。生きているうちに会いたかったが、皮膚や毛や匂いがあるうちに触れられたことは非常に幸せだなと思った。犬は昔より痩せて頬骨が硬く、脇腹の癖毛は柔らかく昔のままであった。点滴を刺されていた脚の毛は硬く、骨は昔のように立派に太かった。死んですぐは耳が聴こえると聞いたこともあるので、ある意味で間に合ったのかもしれない。自分にはそういった慰めが必要だった。
 父親は仕事で数日帰らず、母親が火葬業者を探して電話をかけた。あくまで覚悟していたかのように日常の延長を過ごす母親と自分は、恐らく互いに互いを、あるいは自分自身を庇おうとしていた。作ったばかりの2着のスーツを犬と母親に見せ、母親は幾分か喜んだ。かつてそうだったように、人間はある程度気を逸らす必要がある。
 昼食に持ってきたメロンパンを昼食としては遅くに食べ、夕食を家で食べることに決めた。「見ている気がするね」という言葉を慰めるために柔らかく同意してみるなどしていた。

 火葬を翌日に決めた母親は、寝る直前に何度も犬に挨拶をした。風呂上がりの自分は、誰もいない居間で、かつて犬に微妙な目で見られていたダンスの練習を未だ犬である存在の前でやった。やらねば後悔すると自分が思ったのであり、葬儀とは生きている人間のためにやるものである。

 会社を休んで来たものの、結局のところ急ぎのテレワークがあって全く休めない。
 ギリギリの時間に目が覚めたときには、姉と幼い姪が来て犬を触っていた。先週頃に死期を知って会いに来ていたという。
 程なくして火葬業者が来た。犬に手を合わせ、車の後部座席に入った火葬台に乗せる。母親が覚悟していたような態度を出しながらも何度も惜しんで撫でていた。やはり、自分はある程度いつも通りである必要があった。ドアが閉まり、自分たち家族は家の中で待つことになった。
 幼い姪は家のものを出しまくり、自分は片方の新しいスーツを着て姉に見せた。これは普通の会合である必要があったからだった。棺とかがあると思った、とこぼした母親の言葉を優しい事実で半ば上書きした。ベッドは入れられなかったが、好きだった菓子類と首輪と貰った花束を一緒に燃やせたのだから充分だろうと満足したような顔をして言っておいた。
 ソファで寝始めた姉を起こし、熱気の残る火葬台から犬の骨揚げをした。小さな骨を割り箸で執拗に入れた。大柄な小型犬であったから顔がしっかり残っていて、何とか潰さずに骨壷に収めることができた。火葬業者の人は消し炭を避けながら細かい骨や灰も刷毛で集め、隙間に流し込んでくれた。
 綺麗な字で名前を書かれた木の位牌、綺麗な水色の袋に包まれた骨壷を貰ってケージの上に置いた。一緒に燃やした犬の首輪は水色だった。

 姉が帰ると、母親と自分は神社へ向かった。自分は帰省すると必ず地元の神社を巡る。もう泣きそうになることはなかった。時間の都合上1社を残してくまなく回った。何か特別なものはない帰省のように時間を過ごしていた。
 近頃、自分は家でよく泣く。仕事やプライベートが忙しくて休みたさすぎて泣く。赤ちゃんなのである。湯船で泣いた理由も、持ち帰ってきた作業が終わらないからであった。悲しむ暇もないというのは一種の救いであり、しかし全体的な精神への影響は確実に大きく、悪いものだった。TVに好きな芸能人が出ていたとか面白い動画を観たとかで笑える時点で、様々を封じ込めることになっていた。なぜなら自分は社会人だからである。たとえ親が死んでも仕事上の表情に影響してはならない。それがいわゆる大人的な対応なのである。恐らく。

 終わらない作業の途中で寝落ちし、やはり昼前に起きる。参拝し損ねた1社に行き、リモートでの研修を受ける。何も休みではないじゃあないかと思う。何かの片手間に何かと何かをやり、両手と両脚と穴という穴に花である。
 研修を終えると、買い忘れていたお札を買いに神社に行く。仕事を少しだけ待ってもらい、母親が食べようと決めていた寿司を取って食べる。これはただの日程が忙しい帰省であった。
 ふとパンの欠片を落としたとき、冷蔵庫を開けたとき、床に服を置いたとき、ソファにもたれかかったとき、もう犬は死んだのだと気付く。これからはヨーグルトの蓋の裏もクロワッサンの皮も全部自分の物で、ソファの角も自分たちの物なのである。
 荷造りをしていると仕事から父親が帰ってきた。挨拶もそこそこに犬の骨壷が入った袋に声をかけ、母親の車に乗り込む。空港で、休日を融通してくれた人々のためにお土産を買った。

 飛行機では寝るつもりだった。今寝なければ家での作業を徹夜で行えない。しかし、寝ることで何もかも溶けていく記憶や感情に焦りを覚えていた。
 きっと今尽力して普通のような顔をしてこれを書いている気分、記憶、痛くなる頭、手触り、匂いも全て忘れていく。それに自分は恐怖している。それもまた必要なことなのかもしれないが、今はそれに煩悶することが必要である。

 離陸から着陸へかけてこれを書き終える。手荷物検査では母親のこれからに不安を覚え、離陸では犬を置いていく気がして手を伸ばしたくなった。
 決して忘れ物をせずに家に帰って風呂に入り、スーツを吊るし、シャツにアイロンをかけ、忙しさに泣きながら作業を進めなければならない。
 しばらくは記憶の犬の前脚でなく、忙しさを握りしめて生きていくのである。


5月14日(金) 20:53
5月15日(土) 0:28 追記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?