私には学がないから


と、父方の祖母は、たまに言う。
ばあちゃん、誰がそんなこと言ったんだあんたに、なあ、そんなこと言うなよ、ばあちゃん。誰が言ったんだ、そんな酷いこと。ばあちゃん。なあって。と、肩を揺すぶって問いただしたくなる。
俺にはできないよ、そんな酷いこと。思い出せってことだろ、昔の嫌な記憶をさ〜〜。

それを思い出すことがどれだけつらくて、思い出したときどれだけありありとしていて、どれだけ、どれだけもう、棺桶に入って燃えたって尽きやしねえ、自らのどうしようもなかったのにどうにかできたんじゃないかって罪悪感だけ抱く、そういうことかって──そりゃあ属性からして俺は他人事だよ、でも──もう今すぐ号泣本当にできちゃうくらい俺は分かるんだよ、ばあちゃん。
だから、誰に言われたんだとか、いつ思ったんだとか、多分今際の際でも訊けないよ、ばあちゃん。死ぬときに孫がそばにいたらさ、孫がいて幸せだったなあって、ちょっとでも思って、不出来な孫を恨んでも絶対構いやしない、でも絶対自分のことだけは不出来な存在だったなんて思ってほしくないんだ。
母親も帰省時に「(昔)あんたに良くできなかった分、帰ってきたときくらい好きなもの食べさせて好きにさせてやりたい、まだ足りないくらい」と贖罪を口にする。それもまた不憫に思うけれど、それとはまた根本的に違う問題だと認識している。

(狭い田舎だから身バレしない程度に書くけど)父方の祖母の人生は、自分が知っている限りこういう感じ。
多分地主ほどではない農家に生まれ育って、(地主かどうか知らんけど)まあまあ土地持ってる農家に嫁いだ。これは恋愛結婚だったのかお見合いだったのかは完全に分からない。夫婦仲は良いっぽいけど、その出逢いの手段まで探るのは何となく野暮かなとも思っている。
で、義母(つまりワイ将にとっては曾祖母)に「長子は男の子を産まないと出て行ってもらう」と言われたらしい。(ワイ将の)曾祖母はワイ将が激烈幼い頃に亡くなっているので、あえて人間性については語らない。時代もあっただろうし。(身バレしない程度にその背景を言うと)曾祖母は養子で(その夫の)曾祖父は婿養子だったらしく、曾祖母は曾祖母で何らかの焦りもあったのかもしれない。つまり誰も悪くはないのかもしれないけど、いわゆる嫁いびりがあったらしいってこと。
結局長男(つまりワイ将の父親)が産まれて、義母(ワイ将の曾祖母)は激甘やかし。魚の小骨まで取って身を全部ほぐして与えるような感じだったらしい。それに反して(ワイ将の)父親は早い時点でかなりの個人主義に育ったらしいから不思議なもんだけど。
それで時は流れて長男(つまりワイ将の父親)が結婚することになって、義姉(つまりワイ将の母方の祖母)とも挨拶することになったはず。その義姉は当時のこの田舎には珍しく女学校出身の公務員。で、父方の祖母は(聞く限り)中学校卒業が最終学歴。当時の田舎からしたら十分だよそりゃ。(ワイ将の)母親曰く若干教育ママ気質の義姉(つまりワイ将の母方の祖母)は、そりゃもうとんでもないエリートに見えたかもしれない。
(ワイ将の)両親は職場結婚だから多分お見合いじゃないと思うし、だから親がどうこうで認める認めないなんて話はなかったと思う(内心はそう信じたい)。でも、父方の祖母はギャップを感じたかもしれない。上の子は大学に出せたけど、お金がないし下の子は大学に行かせられない。でも向こうは両方とも大学に行かせて、みんな公務員で。私は。
それで産まれた孫(つまりワイ将たち)は、まあ色々あったけど、少なくとも片方(ワイ将)は芸術系とはいえ大学は卒業したし、高校の時点で一応自称進学校に運良く入れたし。それがばあちゃんの安心になったのか、それに比べて私はという自虐になってしまったのか、今でも話を切り出せない。そんな感じ。

ばあちゃん、確かに俺は自称進学校に入って出て、お陰様で色々援助してもらって大学も入って出て、なんとか就職して限界に接しながらもさ〜〜なんとか、出社してるよ。でも俺は勉強苦手だよ。机にじっと座ってらんないよ。板書とろうとしたらノート見た瞬間全部忘れるよ。数えた数字途中で忘れるよ。何年もかけて習慣化したことたったの1日で忘れるよ。俺はよっぽど不出来だよ。
ばあちゃんが凄いと思ってる人々だって、他人の意見を聞かないで勝手に行動したり他人の痛みを見誤ったり、子供に野球しか観せなかったり前髪ひとつにも苦言を呈したり、色々難色を示そうと思ったらさ、示せるんだって。これ本当に。学がないって。十分だよ義務教育終えてたら。ばあちゃんの字はほとんど見たことないけど、自分の名前を漢字で書けない人だっていくらでもいるよ。ばあちゃん。

父方の祖母は裁縫が上手い。手のひらサイズのぬいぐるみ、トートバッグ、お弁当バッグ、何でも作ってしまう。最近は老眼でよく見えなくってと言ってミシンは控えめにしているらしいけど、やっぱりたまに使っているらしい。泊まったときに、ばあちゃんがあっという間に縫い上げていく布の袋を裏返して、もういいよってくらいに綿を詰め込むと、不思議なことに、ぬいぐるみができている。その喜びが、ばあちゃんには分からないだろう。その頃は幼稚園児だったから余計に、ばあちゃんは魔法使いなんだって感動した。絵本の料理本だってもう少し工程を踏むのに、ばあちゃんの裁縫はあっという間で、裏返して綿を詰めて、あとはちょっと入口を縫ってもらうだけで、本当にあっという間。プリキュアの変身よりきっと速い。それがどんどん出来上がって、不思議で、嬉しくて、楽しくて、ばあちゃんの凄さにドキドキして、あの子供には少し広かった2階の部屋が、魔女の秘密基地みたいだった。本当なんだ、信じてほしい。誰って、一番にばあちゃんに信じてほしい。俺は本当のことを言ってる。嘘1個もついてない。信じてほしい。不出来に人を騙すことに秀でてしまったけど、ばあちゃん、これだけは信じてほしい。
祖父母の家には他にも楽しいポイントはたくさんあって(ビニールハウスとか床下収納庫とか)、それらは比べ難いけれど、モノを作ってワクワクした経験は多分一生あれを超えられない。自分は後何年生きるか分からないけど、一生超えられないと断言できる。
以前書いたかもしれないがワイ将は裁縫が下手で、手先がとんでもなく不器用だ。ミシン針が指を貫通したこともあるくらい不器用で不注意だ。だから多分どんなに努力したって、ばあちゃんには敵わない。そりゃ当時の必要技能として裁縫はあっただろうけど、それと当時のワイ将のときめき、驚き、もっとやりたいという好奇心や煌めきとは関係ない。義務感で習得したものだろうと、だってワイ将にとっては、本当に魔法だったから。ばあちゃんは、どんなに嫌で苦しい記憶だったとしても、私は魔法を覚えたんだって誇ってほしい。当時の記憶はあまりないけど、それでも鮮烈に残るくらい、孫を喜ばせたんだって思ってほしい。
当時の祖母にとって、子供のワイ将がまとわりついてきたことは迷惑だったかもしれない。でも、迷惑な子供を自分の技術で記憶の虜にしたんだよ、ばあちゃんは。信じてほしい。信じてほしい、嘘じゃない、1個も嘘じゃない。俺が今後の人生かけたって習得できない魔法を、あっという間に披露したんだよ。俺のことは一生迷惑で金のかかる放蕩野郎だと思って、発言の一切だって疑って構わないけど、自分につけた技術や手際だけはどうか信じてほしい。学歴が仮になかったとしても、学歴以外の魔法を身につけたって、どうか信じてほしい。

その小さなぬいぐるみが貼りついた12月用の壁飾りは今も祖父母の家にあって、泊まっていたのは11月だったんだろうなあと思う。それは毎日1個ずつオーナメントを作って、布に付けるタイプの壁飾りだった。幼いワイ将はその趣旨を知りながらも魔法の虜になって、もっともっととせがみ、あっという間に12月分を埋めていってしまった記憶がある。困った顔をさせてしまっていたから、毎日の楽しみだったなら申し訳ないことをしたとたまに反省する。
何年前だったか失念したが「この壁飾りのぬいぐるみの綿詰めが楽しくてね、ばあちゃんが縫うのも凄く速くて楽しくて、細かい作業は苦手だけどそれだけは人生で楽しかった」というようなことを言った記憶がある。祖母は「あんたがあんまり綿をぎゅうぎゅう詰めるもんで、そんな入れるもんじゃないよって思ったけど、楽しそうだったっけ止めんかったんだわ」と苦笑していたような気がする。あれが未だに年月を更新せずに20年間くらい壁にあるのは、祖母もあれをいい思い出だと思ってくれているからだと良いんだけど。どうだろう。

ばあちゃんは現在、とりあえず元気で生きている。元気なうちにこれを総じて言うか、それとも床に伏してから、それとも今際の際に、果ては、もう、棺の中へ、吐露するのか。ずっと考えあぐねている。
学歴が全てじゃないし、技術だけが社会じゃないし、愛嬌だけが世間じゃないし。そういう要素ってもっと数えたらいくらでもあるし。全部兼ね備えた存在なんて、それこそ崇拝対象レベルだし。

ばあちゃんは本物の魔法使いだって、言ったら泣いちゃうなあ本当に。信じてほしくて泣いちゃうし、今まではっきり言えなくて申し訳なくて泣いちゃうし。
だから学歴なんて、勉強なんて、学がないなんて、言うなよ。ばあちゃんは落ち着きのない子供の目を何時間も釘づけにしたんだよ。夢中にさせたんだよ。信じてくれよ。健康でいてほしいけど、どっちか選べと言われたら、健康よりも自信持ってほしいって、そっちのボタンを俺は勝手に押すよ。そんなに俯いたまま死んだら嫌だよ。本当にこれだけは信じてくれよ。嘘偽り模倣の得意な孫で不甲斐ないけど、どうか信じて。そしてどっちも選べるなら、どうか健康に暮らしてほしい。

もしワイ将が何らかの原因で(父方の)祖母より先に死んだら、誰でもいいけど代わりにこれを伝えてほしい。
だってあの場にいたのは、自分と祖母の2人だけだったから。これをこのまま音読したら、ばあちゃんは本当に俺の言葉で喋ったんだと信じてくれる。はずと願っている。

記憶の棘は思い出せるうちに出力しておかなければ、どうにもならないからね。死人に口なしとは、正にこれ。





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