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スモール・タウン・ガールの見た東京 1989-1991-1999-2019

私があのとき見た世界、そこに現れた人たちひとりびとりが、思い返せば何てきらきらしていたのだろう。私はほんとうにそこに居たのだろうか、と今も信じられないほどに。自分が見聞きしたことを粗くスケッチしたようなこの文章が、誰かの心と少しでも響き合うなら、とても嬉しいです。

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手元に1冊の古い雑誌がある。1986年3月の「オリーブ」。その中に、ひときわ輝く男の子を見つけたのは、中学校卒業を間近に控えた頃だった。街角スナップのページで、シックなツイードのジャケットに眼鏡をかけた和光学園高校2年生のその人は、小山田圭吾という名前だった。それから「小山田さん」は、勝手に私のなかの憧れの先輩になった。

沖縄の小さな離島に住んでいた私は、「東京に行って、この人と友達になれたらいいなぁ」と、そんなことを思うようになった。願っていれば、チャンスはやってくるものだ。地元の高校から和光大学への推薦合格が決まり、大学生活が始まった。

小さなキャンパスだったが、手がかりもつてもない。和光学園高校出身の人がいれば、それとなく聞いてみたりもした。そんなある日。一学年上の男の人から話しかけられた。「小山田くんのファンなんだって?ふふ…残念だね。小山田くんは、大学にはいないよ。○○っていうバンドをしてるんだ。」バンド名を確かめる間もなく、男の人は行ってしまった。

それから数カ月が過ぎて、夏休み。私は退屈しのぎに、レコード屋さんの棚を端から順に眺めていた。ハ行まできたところで、気になるCDがあった。
5人の男女とダルメシアン犬が、浜辺を散歩している色調抑えめのジャケット写真。その上に載っかったロゴが可愛い。

あ、この感じ、このタイトル、いいな…。

裏返すと、作曲者のクレジットが。
思わず、息を止めた。
[keigo oyamada]の名前が、そこにあったからだ。


〈1989〉
『海へ行くつもりじゃなかった ~Three Cheers For Our Side』は、自分の想像をはるかにしのぐ良さだった。ちょうど私の19回目めの誕生日のころに渋谷のクラブクアトロでデビューライブをするという情報を雑誌で見て、ベッドの上を飛び跳ねていた。早速プレイガイドに電話を掛けた。が、「アーティストの都合で、中止になりました」という素っ気ない言葉が返ってきた。

しばらくたって、またあの男の人に出会った。「小山田くんね、事故に遭って、入院してるんだよ。会いたいんでしょ?行くなら今じゃないの」その言葉をきいて、新宿へ直行。バスに乗って、めざす病院に着いた。病室にはすんなりと案内された。

そこには、目のくりくりと大きな、パジャマ姿の小山田さんがいた。思っていたよりもずっと色が白くて、痩せた人だった。怪訝そうな顔つきの彼に向かって名前を告げ、今までのいきさつを話した。小山田さんが、???という表情をしたあと放ったのは、「何それー」という一言だった。

そのあと、緊張のあまり何を話したのかは覚えていない。ただ、小山田さんが「Coffee-milk Crazy」のイントロをギターで爪弾くのを、そばでぼおっと聴いていたような気がする。時間にすればものの十数分だったと思う。持っていたノートを渡し、イラストを描いてもらった。そこにショートカットのお姉さんがやってきて、小山田さんにコーヒー牛乳を差し入れた。「おおっ、これぞコーヒー牛乳!って味だよ。これ好きなんだー。」幸せそうな顔になる小山田さん。その後、フリッパーズを好意的に紹介している英「i-D」誌をめくりながら、二人がいろいろ音楽などの話をするのをそばで聞いていた私は、ある固有名詞が話題にのぼったとき、思い切ってたずねた。
「…あのー、…そのモノクローム・セットって、何ですか?」
二人は、困ったように顔を見合わせた。
「うん、あのね…そういうバンドがいるんだよ」
私はなんだか申し訳ないような気持ちになってしまった。
帰りのバスに、そのお姉さんと私は一緒に乗り込み、少しお話をした。「今、新しいバンドの準備中なの」と話したおとなしそうなその方は、ブリッジとして活動を始める前の大友眞美さんだった。

フリッパーズが音楽雑誌で紹介されると必ず、いわゆる80年代の「ネオアコ」というジャンルでくくられるバンドからの影響が挙げられた。病院での一件もあって、もっと彼らの音楽ルーツについて知りたいと思った私は、暇をみてはレコード店に通い、少しずつ聴くようになった。でもいまひとつ、フリッパーズを初めて聴いたときのようなきらきらした感じが掴めずにいた。その中でとても印象に残ったのが、エヴリシング・バット・ザ・ガールがカヴァーした『Night and Day』だった。

ある日、学祭のフリーマーケットで、一枚のCDを手に入れた。白と水色を基調に、手書き風の文字で“MARINE GIRLS”と書かれたもの。繊細なギターの音と、もどかしげな女性ボーカルの、それはあまりにもひっそりとした音楽だった。ああ、私の好きな音がここにある、と思った。

小山田さんにそのバンドのことを話してみると、「ああ、マリンガールズ。エヴリシング~の女の人がやってたバンドだね。あれ大好きだったんだ」。頭の中で、カチリと鍵の合う音がした。何か、とてもわくわくすることの始まりのような気がした。

それから私は、ロリポップ・ソニック時代からのファンであるSちゃんという女の子と知り合い、二人でいろいろな場所に出かけ、互いにコンピレーション・テープをつくり、レコード屋やライブハウスを巡った。代々木チョコレイト・シティで、ロリポップ時代の名曲『Papa Boy & I』を生で聴いたときの感動、横浜のクラブ24で行われたメジャー・デビュー後初のワンマン・ライブで味わった高揚感は、今もはっきりと覚えている。

下北沢のZOOというクラブで開かれていた「ラヴ・パレード」のイベントの日には、小山田さんたちの仲間の真似をして、ベレー帽やサングラス、ホワイトジーンズを身に着けた。ストーン・ローゼズの『Made Of Stone』がZOOのフロアに流れ出し、軽く体を揺らしながらその中にいる小山田さんを、どきどきしながら見ていた。Sちゃんと下北沢を歩いているとき偶然小山田さんと出会い、そのまま彼ら行きつけの「T」という喫茶店や、オリジナル・ラヴの渋谷クアトロライブに付いていったりもした。「ナンシー・シナトラ、いいよね」と友達同士で話すのを横でしっかり聞いていて、その足でナンシーのレコードを探してきたSちゃんに、軽いやきもちを妬くこともあった。いまとなっては迷惑も顧みない怖い物知らずだったことに青ざめてしまうが―、私たちは当時の典型的なフリッパーズ・ファンだった。そして小山田さんは、そんな不躾なファンの行動を涼しげな顔で適度に放っておいてくれた。


〈1990〉
年が明けて、90年代が始まった。1月の小山田さんの誕生日。その日私は、プレゼントを買って事務所に送ろうと思い立ち、代官山や渋谷を独りで歩き回っていた。
ひと休みするため、人の少ない当時のWAVE~渋谷SEED館の連絡通路でフライヤーをながめていると、なぜか小山田さんたちと出くわした。その日ちょうどお誕生会をすることになっていたらしく、同席させてもらえることになった。下北沢のイタリア料理屋には、ファンジン・英国音楽を編集している方々や、ひょろっと細身の瀧見憲司さん、小沢健二さん、ベレー帽のよく似合うカヒミ・カリィさん(音楽活動を始める前の)などなど、たくさんのご友人が集まっていた。みんなで「最近おすすめの音楽」を軸に自己紹介をし、私はその場の雰囲気にかなり緊張しながら、ただ座っていた。しかもあろうことか新参者の私が隣の席に着いてしまい、料理も喉を通らなかったのだが、その様子を気にかけたのか「君も食べなよ」と小山田さんが促してくれて、ありがたすぎてますます緊張した。そしてその日買ってあった大きな水鉄砲と白いベレー帽をプレゼントした(あとから聞いた話では、小山田さんはその水鉄砲で部屋の植物に水をやっていたとか)。
この日の集合写真は、英国音楽の小出亜佐子さんのはからいで私の分まで焼き増ししていただき、いまも手元に宝物として残っている。

2ndアルバム『カメラトーク』が発売され、フリッパーズの人気はぐんぐん高まっていった。彼らを見かけるごとに、その一挙手一投足を周りで見守るファンの数は増えてゆき、今までのように気軽に話し掛けたりできるような雰囲気ではなくなっていた。私の大学では小沢さんのお母さま、小沢牧子教授が教育心理学の講義をされていたのだが、「こないだ息子のコンサートに行ったら、あなたのような格好をした女の子がたくさん観に来ているのね、驚いたわ」と言われて、ちょっと落ち込んだこともあった(でも、小沢教授はとても可愛らしく、優しい先生だった)。街に溢れるいかにも、なフリッパーズ風スタイルに反発して、髪をドレッド風にしてみたり、試行錯誤していたのもその頃だ。好きなものを素直に好きと言えない、ひねくれた自分がそこにいた。


〈1991〉
3月発売のシングル『Groove Tube』を聴いて、ぶっとんだ。いとうせいこうさんのアルバム『MESS/AGE』でサンプリングされていて、とてもとても気になっていた曲にそっくりだったからだ(そのおかげで、ようやくその曲がイタリア映画『SESSO MATTO』のサントラのものだと知ることができた)。カヒミさんに聞くと、「あれね、私がレコード屋さんでジャケットがカッコよかったから買ってみたの。そしたら中身もすっごく良くって…」と、いたずらっぽく笑った。うーん、やられたなぁと思うと同時に、偶然とはいえ同じものに反応していたということが、素直に嬉しかった。

その春、まだ肌寒い2月28日。私にとってたぶん最初で最後であろう体験をした。『Groove~』のプロモーションヴィデオのエキストラとして参加することになったのだ。数十人のエキストラが、都内のボウリングセンター跡に集まって撮影は行われた。60年代のイメージということで、女の子たちはヘアメイクもばっちりしてもらい、スタイリストさんが山のように集めてきた衣装のなかから、『オースティン・パワーズ』さながらの派手な格好に変身する人もいて、みんな大はしゃぎだった。古着屋さんに勤めているという、自前の衣装とメイクで参加した女の子グループやモッズ系の男の子たちもいて、飛び抜けてお洒落だった。フリッパーズの二人だけは、相変わらず淡々としていたけれど。できあがった映像を観ると、案外ご本人たちも撮影を楽しんでいたのだなと思った。ロングヘアーのかつらを被った大学の先輩が、パーティーシーンの会場で何気なく「あ、バナナ食べちゃお」とパクリとしたところを撮影スタッフが偶然に撮影し、それが繰り返し使われているのにも驚いた。そしてその偶然の瞬間は、歌詞とぴたりとはまっていたのだ。

翌日は渋谷から九十九里浜へバスで移動し、『奈落のクイズマスター』の撮影。この日はブリッジのメンバーも加わった。前日に比べ、性格も格好も穏やかそうな方ばかりで、ヘアメイクとスタイリストの方たちがPVのイメージに合わせるように結構がんばっておられたように見えた。現場にはもう一台カラフルにペイントされたバスが待機していて、それに乗り換えて撮影が始まった。信藤三雄さんが、バスの運転を担当した方にもグリーンとピンクの柄ジャケットを着るようお願いしたりして、細やかなのだなあと感心した。車体はThe WHOのマジック・バスをイメージして美大生たちに塗ってもらったそうだけれど、私には仕上がりがちょっと雑に思えたし、フリッパーズの二人も少々不本意な様子だった。

風船をいっぱいに敷き詰めたバスの中、みんなは座席に腰かけたが、私一人だけ、もじもじしているうちに席がなくなってしまい、仕方がなく乗降口近くの手すりに腰かけた。ただでさえ、普段なら到底着ない赤いハイネックのシャツにマルチストライプのベルボトム、派手なサングラスという、昔でいうとフィンガー5のような衣装を着せられていた私は、心臓がどきどきしっぱなしだった。でも、もっと忘れられないのは、同じ大学のノブちゃんという女の子だ。撮影中に突然スタッフから「この中に…フラフープできる方っています?」と聞かれ、全員の見守る中で果敢にも何度もフラフープを回し続けた彼女。その雄姿は、完成したヴィデオにもしっかりと記録されていて、何度観ても私の頬はゆるんでしまう。カジヒデキさん(その日もやはりただ一人ショートパンツ)が「…(あの子は)モデルさんなんですか?」と私にそっと聞いてこられたのもちょっと楽しい思い出だ。

バスを降りて全員で早春の浜辺を歩き、手に持った風船を空へ向けて放すと、二日間にわたった撮影はそれで終了した。

それからも、ときたま下北沢ZOOのラヴ・パレードには足を運んだ。以前の仲間内の多い雰囲気とはかなり変わっていたけれど、仲真史さんたちが手作りのファンジンを配っていたり、フリッパーズに刺激されて創作活動を始めた人たちなど、さまざまな人の熱気で溢れる場所になっていた。しかし、私はなぜかその場所に居ながら、小山田さんたちとどんどん開いていく距離をはっきりと感じていた。もう以前のように、部活の先輩に接する後輩のような気持ちではいられない。彼らは広い世界で、公の人になっていくのだから。

「私のことを年寄りくさいと思っているかもしれないけど/田舎の小さな町から出てきた少女にとっては大変なことよ」。
トレイシー・ソーンの歌う『スモール・タウン・ガール』が、何度も頭の中に流れていた。


〈1999〉
初めてフリッパーズ・ギターの音楽を耳にしてから10年が経ってみて、ようやく誰かの受け売りではなく自分の好きなこと/ものが見え始めてきたように思う。長い時間だった。その間に、彼らはコーネリアスと小沢健二というそれぞれの道を飄々と歩み出し、彼らのフォロワーとして出てきたバンドも自分たちの世界を確立し、あるいは消えていった。フリッパーズが誕生するキーパーソンであった井上由紀子さんは、いろいろな媒体で私たちに素敵な音楽などを紹介してくれているし、カヒミ・カリィさん、嶺川貴子さんらのユニークな才能は、今や海外にも熱狂的なファンを持つ。そして、音楽だけでなくさまざまな分野で、彼らから大なり小なりのインスピレーションを得て、なにかを創りだしている、あるいは創りだそうとしている人たちがいる。そんな人たちに敬意を込めつつ、自分もそうでありたいと強く思う。この先どこにいても、その人たちの存在を信じ、応援していたい。

”小さな町のやり方を乗り越えて試してみる価値はあるわ/私の中から完全に抜け切ってはいないけど…/あなたは、別に気にしないというかもしれないけれど/あなたがそこにいなければ、こんな風にはしなかったと思うの」ー”Small Town Girl” Written by:Tracey Thorn 対訳:真杉 潤子


〈2017〉
コーネリアスが11年振りのフルアルバムを出すと噂されていた今年の1月。ペニーアーケードが再結成してライブをするということで、島から上京した。会場の新代田FEVERには、二十数年前のペニーアーケード解散ライブでもお見かけした記憶のある方々があちこちで立ち話をしていて、同窓会のような雰囲気だった。私は小出亜佐子さんに、当時の写真のお礼をようやく直接伝えることができて嬉しかった。ペニーアーケードのライブは以前にも増して素晴らしく、メンバーの方々が歳を重ねてなお仲良く楽しそうに音を奏で、ファンやお友達が温かな眼差しを向けている空間に居合わせることができて、ああ、来てよかったなと思った。カジさんも普通に客席に立っていらしたけれど、声をかけるのは控えた。

家に戻ってからTwitterで、その会場に小山田さんもいらしたこと、さらに2月のライブでもペニーのサポートで小山田さんがギターを弾いたことを知って、ああ、東京はやっぱり遠いな…と、ちょっと残念だったのだけど、今回はそういう巡り合わせだったと思うことにした。神様はいつも完璧な虹を誰にも彼にも見せてくれるわけではないのだ。

6月のアルバム発売を前にシングルもリリースされたのだけど、またものんびりしているうちに完売になってしまった。すると、それを心配した方々がTwitterでメッセージをくださったり、何とか聴けるように考えてくれたり、そうしたお気持ちがとても嬉しかった。昨年は、PV撮影当時にご一緒した思い出深い女性とSNSで偶然再会して、二人で撮影現場のボウリング場がまだ残っているか探検しに行くという楽しい遊びをした。十数年前に島に戻ってきて、趣味の合う仲間を探せず寂しい思いをしていた時代とは変化している。そして、これは何よりも今なお小山田さんが皆に愛されている証拠なのだと思う。
7月の初めに、注文していたアルバムや特集雑誌が届いた。七夕の夜に初めてフルで聴いた。島の暑い空気をゆっくりとクールダウンさせて、それから軽やかにしてくれるような歌とサウンドが心地よかった。『Mellow Waves』は改めて、小山田さんの存在が新しいリスナーにも浸透していくきっかけになるだろう。そしてその影響は未来の人へ引き継がれてゆく。

東京に焦がれていたスモール・タウン・ガールは島に戻り、だいぶ歳をとった。けれど、かつての私がそうだったように、夢みる若者たちを今度は大人のひとりとして、ほんの少し後押ししていきたい、そんなふうに、そっと、思う。

“さよなら さよなら バイバイ アディオス
誰でも この先 いつかは グッバイ
夢のような 思い出さえも
時とともに 霞んで消えていくよね”

―「いつか/どこか」作詞・小山田圭吾

〈2019〉
2017年に続いてコーネリアスがとてもアクティブになった今年。早いものでフリッパーズ・ギターがデビューしてから30年、小山田さんもなんと50歳に。こんな素敵な50歳、そうそういない(と思っている方は多いはず!)。

今年再発されたアルバム『POINT』の再現ツアーでは、同じく今年再発となったコーネリアスの1stアルバムから、あの名曲"The Love Parade"を演奏したという。もしかするとその選曲の大きなきっかけになったかもしれないのが、SNSで偶然知り合った方だったということも凄く嬉しかったし、サプライズでその曲を聴いて感激したという、彼らを長年にわたって見守ってきた方からのお話もぐっと胸にきた。

世を去り星になっていく人たちも少しずつ増えてきたなかで、いまでも輝き続けている姿が眩しい。

今日8月25日は、島で採れたスターフルーツを齧りながら、自分だけで静かに30年の月日を祝おうと思う。これからもたくさんの方に愛される、みんなの星でいらっしゃいますように。

この文章を、(勝手に)小山田さんに捧げます。
感謝を込めて、ね。

2019年 宮古島にて 幸地 郁乃

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