デレアニとは「ぼくのかんがえたさいきょうのアイドル」のアニメ化であって、デレマスのアニメ化ではなかった
制作スタッフやキャストの皆様をはじめ、関わっていただきました全ての皆様の愛が1カット1カット、全てに詰まっていて本当にキラキラ輝いた作品になったと思います。本当にありがとう御座いました!
出典:シンデレラのお疲れ様本(P031)柏谷智浩
間違いなくデレアニ制作陣は、最善を尽くしてデレアニを制作したのだろう。愛を込めてアイドルたちを描いてきたのだろう。
だが最善を尽くしたからと言って、最良の結果になるわけではない。
最善を尽くして愛を込めて制作した結果
それまでアイドルとプロデュサーたちが積み重ねてきたものを踏みにじったのも事実だ。
それでも私はデレアニに感動したという、あなた方の感情を否定しません。
それもまた誰にも覆せない事実です。
ですが、その感動はモバマス以来のアイドルたちの歩みと、プロデューサーたちの思い入れを踏みにじることで成立するのもまた事実なのです。
◆デレマスよりもアニマスの世界観が優先される。
初めに理解しておきたいのは
デレアニは、モバマスの世界観よりもアニマスの世界観を優先したということです。
いろいろ考えていくなかで、やっぱりちゃんとしたドラマをやらないと、観ている人に働きかけるものにはならないだろう、と思ったんです。
出典:アイドルマスターシンデレラガールズ コンプリート アニメファンブック(P229)
錦織敦史監督が前作で完璧な“アニメ『アイマス』ワールド”を構築されました。そこを引き継ぎつつ、新しいものにしないといけない。
出典:https://dengekionline.com/elem/000/001/049/1049815/
各種インタビューを読めば、とにかくアニマスの世界観ありきで企画が進んでいたようです。
プロデューサーとして担当した作品の一つ、TVアニメ「アイドルマスター」と「劇場版アイドルマスター」に並々ならない思い入れがある模様。
出典:鳥羽洋典 - ニコ百 https://dic.nicovideo.jp/id/5283340 #nicopedia
デレアニ制作の中心人物であるアニプレックスのプロデューサー
鳥羽洋典は、どうやら自身が過去に関わったアニマスという成功体験が忘れられないようで、アニマスの成功をもう一度と願ったようです。
しかしです。アニマスは、監督である錦織敦史が原作のアイマスに深い思い入れがあったからこそ制作できました。
そしてアイマスそれ自体が長年の積み重ねで世界観とキャラクターの人となりが育まれていました。
だからこそ、アニマスは監督の力量と、原作の世界観とキャラクターの相乗効果で高く評価されることができました。
どうしてデレマスの世界観よりアニマスを優先するアニメ制作スタッフと、いまだ積み重ねの浅いデレマスで、同じような成功が望めるのでしょうか。
案の定、アニメ制作が決まった頃でもモバマスは世界観とキャラクターの設定がまだまだ浅かっために
アニメスタッフが中心になって、世界観やキャラクターの設定を勝手に作るという暴挙が行われました。
ほとんどのキャラクターが独立しています。まずはそれを一旦整理して『アイドルマスター』のフォーマットに落としこむ作業をしました。
この整理作業はシリーズ構成に入る前の段階、どういうアニメにしようかという話をするときに、石原さん(石原章弘氏、『アイドルマスター』プロジェクト総合ディレクター)と高雄監督、脚本の高橋龍也さんを中心に主要キャラクターの設定を徹底的に決めようと作りこみました。
出典:https://dengekionline.com/elem/000/000/965/965735/
設定を作るために苦労されたようですが、その結果が原作のキャラクターからかけ離れていたのでは意味がない。
いくら積み重ねが浅いからと言っても、それでも積み重ねてきたものがある。デレアニと本家デレマスを比べてみるとどうでしょうか
三村かな子はあんなに本番に弱い子でしたか?
多田李衣菜はあんなにも他人の価値観に狭量な子でしたか?
本田未央はあんなにも周りが見えずに先走ってしまう子でしたか?
デレアニはアニマスの世界観を引き継ぐことができたかもしれませんが
アニマスの世界観に引き摺られて、デレマスの世界観が、アイドルたちの歩みが、プロデューサーたちとの積み重ねが、めちゃくちゃされたのも事実でしょう。
◆人間性という鋳型にはめてアイドルを殺した高雄統子
こうしたアニメスタッフの専横の中心にいたのが監督である高雄統子でした。むしろ高雄統子が全ての元凶と言ってもいいぐらいです。
ただ「シンデレラ」でも「ドラマがあるもの、キャラクターの感情を軸にしたものがやりたい」と。それが後押しになったのかな、と思います。だからきっと、高雄さんが「やらない」と言えばやらなかっただろうし、A-1 Picturesもこの仕事を受けてなかったかもしれません。
出典:Newtype 2015年 01月号(P14)
デレアニは世界観も、ストーリーも、どんなキャラクターを登場させて掘り下げるか、どんなユニットを組むのかも、アニマスの世界観を受け継いだと評される高雄統子の意向が優先されました。
その時点で、ある程度ベースとなる設定や世界観はできていました。それを含めて高雄監督の中である種のキャラクター像が当然できあがっていて、この子とこの子の組み合わせだったらこういう物語ができるとか、この子とこの子が組み合わさればこういう化学反応が起きるとか、いくつか事案を出して、それを石原さんと揉んだんですね。
出典:https://dengekionline.com/elem/000/001/049/1049815/
そのうえ厄介なことに、高雄統子はドラマや人間性を重視する作風でした。
高雄さんはキャラクターを「人」として捉えているんですよね。キャラ愛、というよりも、実在する人として大切にしている。
高雄さんが「この子たちのある種の成長劇とかドラマを描きたいんだ」と。結局、何が来てもブレないんだな、と思いました。
出典:アイドルマスターシンデレラガールズ コンプリート アニメファンブック(P229)鳥羽洋典
ファンタジーというよりはたぶん、同じ人間として共感できるかどうかを、大切にしているのかもしれない「こうであってほしいな」というキャラクターを描いていないかもしれない。私にとって彼女たちは、たとえ二次元であろうとある種の「仲間」だと思っているんですよ。
出典:アイドルマスターシンデレラガールズ コンプリート アニメファンブック(P138)高雄統子
「同じ人間として共感できるかどうかを大切にしている」
少しでもデレマスを触っていたら、なんだかおかしいなと思うことでしょう。デレマスのアイドルたちは個性が強い、強すぎるほどで必ずしも共感できるわけではない
プロデューサーでさえも、担当アイドルことが全然わからない。だからこそ面白い。なんだ!こいつ!?という訳の分からなさが魅力でもあるはずなのだ。
であるはずなのに、アイドルに対して高雄統子は本来のキャラクター性と向き合うことなく、自分の考える人間性とやらを押し付けた。
高雄統子は人間性という鋳型にはめてアイドルの個性を殺した。
ドラマや人間性、大いに結構、しかしそれは元のキャラクターの個性を尊重することが大前提のはずだ。
◆アイドルを都合のいいモノとして扱うデレマス運営
総評すれば
デレアニとは、その世界観を原作であるデレマスよりも、アニメスタッフがやりたいアニマスの世界観を優先された。
キャラクターの設定も性格も、アニメスタッフのやりたいドラマや人間性のために好き勝手に改変された。
言うなればデレアニとは、アニメスタッフがやりたいことをやるために、デレマスの世界観とアイドルを、都合のいいモノとして扱った。
デレアニとは、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメ化ではない
アニメスタッフがやりたいようにやる
「ぼくのかんがえたさいきょうのアイドル」のアニメ化であった。
そして悲しいことに、デレアニが放送されてから5年が経過しても
アイドルを都合のいいモノとして扱う方針は悪化している。
デレアニのみならず、アイドルマスターシンデレラガールズという運営母体そのものが、アイドルのことよりも、運営の人間がやりたいことをやることを優先している。
アイドルマスターシンデレラガールズ運営は、アイドルのことを考えていない。
運営がやりたいことをやるために、アイドルを犠牲にしている。
その極みとして大阪公演の木村夏樹の扱いがある。
2020年7月にアイマスが15周年を迎えたが、これまで数々の栄光もあれば、口に出すのも憚れる事態もあった。それでも過去の反省を活かして立ち直り、15周年を迎えることが出来た。
これからアイマスの歴史の中でデレアニがどう位置づけられるのか
7thLIVE大阪公演のような誤ちを繰り返さないためにも
デレマス運営には、『アイドルマスター』の基本を振り返って
アイドルともう一度向き合い、コミュニケーションを行っていただきたい
自分たちのやりたいことより、アイドルのやりたいことをやらせるために
自分たちの勝手なイメージより、アイドルのあるがままの姿を描くために
自分の大事なものより、アイドルが大事にしているものを大事にするために
アイドルたちとコミュニケーションを行っていただきたい
木村夏樹を担当するプロデューサーの端くれとして
もうデレアニや大阪公演の木村夏樹のように、アイドルたちを都合のいいモノとして扱わないで、大事にしているものを大事にして欲しいと、切に願うばかりです。
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