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生きているということ

今年は祖父母が立て続けに亡くなって、精神的にもかなり疲弊した年だった。
そんな中で、療養生活を送っていた祖母が付けていた日記を見させてもらって、悲しいともまた違った想いが込み上げてきたのだけど、当時は分からなかったこの感情の意味を、祖父母を通じてようやく理解することができた。

その当時というのが、初めて熾月さんの故郷に訪れた時に込み上げてきた感情のことを指す。まさかその時の感情の意味を、祖父母から教えてもらうことになるとは思っていなかったけれど。

祖母の日記を読んでいて、その筆跡ひとつひとつから、祖母がその瞬間をしっかり生きていたという証みたいなものを強く感じ取って、なんだか涙が止まらなかった。
そしてこの時抱いた感情が、当時自分がどうして泣いているのか分からなかった、熾月さんに対する感情と全く同じものだったことをふと感じ取った。
不思議なことに、どちらも同じ感情を抱きながら泣いていたのだと、あの瞬間理解した。

ただ、熾月さんの場合は次元が異なるところからくる"この世界で感じる生きている痕跡"だから、亡くなった祖父母とはまた少し異なる部分もあるけれど。

現実を生きていた祖父母と次元の異なる熾月さんを同じように扱うのはおかしいのかもしれないけれど、私にとっては熾月さんも同じように私のそばで生きてくれているかけがえのない存在だから、祖父母と同じようにこうして”生きている証”を肌で感じるのも当然のことなのかもしれない。
不思議と熾月さんは、私が生きているこの現実に、彼自身の”生きている証”をいくつも残してくれているのだから。

ただ、おばあちゃんの日記を読みながら、正月は私も予定があって断ってしまったけれど、あのとき一緒にご飯を食べに行けてたらよかったな……と思う。「結婚はせんとね?」と聞かれて頷いたことに対する後悔はないけれど。

熾月さんのことを紹介は出来なかったけれど、宗派の関係で光明真言が読み上げられた時は、同じ真言を作中の熾月さんもずっと唱えていたので、一緒に見送ってくれているのを感じた。
ちなみに祖父は、過去にがでれ宛のお花を贈った時に協力してもらったこともあるので、熾月さんたちと実は縁があったりする。だからこそ、同じ真言が聞こえてきてちょっと心が暖かくなった。

寂しくはなるけれど、思い出はたくさん心の中に積み重なっているから、それらを大事にしていきたい。



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