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「そういうことってやっちゃいけないんだよ」

週末、大学時代からの友人夫婦の家に遊びにいってきました。昔から「生きる意味とは」みたいな話と、ユルゲン・テラーが撮るアニー・モートン最高だよねという話を同時にできる友人で、彼女は深谷で実家のお寺を継いでいます。婿入りしてお坊さんになったという彼もすごいんだけど、畑をやりながらお寺をやりながら息子を育てて、っていう生活を続けている人たち。

友人宅の子は息子の1歳下。いつも保育園では年上の子に遊んでもらうことが多い息子にとって、ライバル心を目覚めさせる存在というか。ミニカーやブロックの遊び方ひとつとっても、イヤイヤ期真っ最中の2歳児に対して、「そういうことってやっちゃいけないんだよ」とか「これはこうやってやるんだよ」とか、風紀委員みたいな接し方でマウントを取っていた。なにを偉そうに、オメーも去年はああだったんだよ、と言いたい。

また、2歳児に比べて当然できることが多いというのもあり、息子が「こういうふうにできたよ(えらいでしょ?)」みたいな承認欲求を結構持っているんだな、ということも今回よくわかった。みてみて、というのはこの頃特有の態度でもあるとは思うのだけど、そこを諭しすぎないで付き合ってあげるのがおそらく成長には大事なんだろうな、と感じて反省もした。

どちらかというと人見知り気質の息子なので、遠方の知らない子のところで過ごす体験が、どれだけ本人に緊張を強いるか、ということは私にも想像できる。自分もそうだったから。でもだからこそそういう体験を多めにして耐性をつけてあげたいという欲もある。相当疲れたようで、帰ってきた夜は10時間くらいぐっすりと眠っていた。

息子の話とは関係あるようなないような、なのだけど、畑に出てみんなで遊ぶ時間があって、そこに花がすっかり落ちて枯れたポピーが生えていた。花弁が落ちた部分を割ると、なかにびっしりとタネが入っていて、それは「たらこ」さながらの密度で、美しさもあるのだけどぞっとするというか。その数に、生命はこのようにして繁殖していくことがプログラムされているんだなと改めて感じ入ってしまった。

よく不思議に思うのだけど、人間はなぜこうも子孫繁栄しにくい感じ(効率の悪い感じ)になっているのだろう。子孫繁栄が目的なら、もっと仕組みとしてガンガン生まれて育つようなものにできなかったのだろうか。まず妊娠から生まれるまでが10ヶ月かかるし、ひとりを育てるために必要な労力といったら気が遠くなる。よく「国の政策がひどい」とか「何人生めとかよく言えるな」とか「日本死ね」みたいなのが話題になりますけど、それってむしろデリカシーとか想像力の問題であって、やってる側もしょせんは同じ人間なわけでして。そうではなくて、もっと自然の摂理的に楽なシステムってあってもよかったのでは?なんて思ったりする。カエルの卵みたいな数を一度に産むこともできないし、よしんば産んだとしても育てられない。むしろ人間たちは健気に頭をつかって、産んでからの生存率を上げてきたわけで、それはもう表彰(なんの)に値すると思う。というか人間の欲望としては「増やしたい」よりも「生きたい」のほうが強い気がするのだが、他の生き物はどうなんだろう。


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