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同調圧力のない社会はない。でも、わざわざ同調圧力と言うのは、それに仕方なく従っているとき。

マスクを外すかどうか、というニュースを見ることが多くなった。
外すべき、つけるべき、それぞれ条件付きなどの主張がある。

それぞれの根拠には、科学的なもの、注意する気持ち的に重要というふんわりしたもの、効果とリスクをバランスしようというものなどがある。

そのような議論とは別に、日本人が欧米に比べてマスクを着けている人が多いのは、同調圧力によるものであるという主張を見ることもある。
合理性よりも、周囲の目を重視してマスクを着けているということだ。
(僕もそんな気持ちで、以前は人がほとんどいない屋外でもつけていた)

同調圧力という言葉を時々見聞きするけれど、どういうことだろうか。
その言葉が使われるとき、そこには周囲からの同調を求める力と、自分の違和感が必ずある

社会には必ず圧力が存在する。他人と生活をするためには、何かを譲歩しないといけない。同調を求められる場面はたくさんある。
でも、たとえば交通量の多い道路の信号を守るへの同調を求められる時に同調圧力というだろうか。さらに、気の合う友人と楽しみにしている毎年の旅行に行くというルールへの同調も、同調圧力とは言わないだろう。

僕たちの常識やルールは同調圧力の一種だ。
だから、同意する圧力については、同調圧力という言葉は使われない。

結局のところ、世界中にある圧力の中で、それに対して不満があるけれど従わないといけない時、その圧力が同調圧力と言われるのではないか

同調圧力、いやいや従っていることを減らしていくためには、声をあげることと、それを討議できる機会と能力が必要だ。声をあげることはSNSなどで増えてきたかもしれないが、これからは討議することが必要なんだと思う。そうしないと、バラバラになってしまう。

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