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夢は小さくていい、と思う

将来の夢は何と聞かれると、難しい。30代中盤の今でも。

小学生の頃から社会人となった現在まで幾度となく聞かれる、将来何になりたいか、あなたの夢は何かという問いがある。

自分にとっては、とても難しい。
聞いてくる人が一体何を求めているのか、なんて考えてしまう。

小学生の頃に周囲で聞いた野球選手、医者、ケーキ屋さんになる、これらの一定数は相手の求めることを答えていたのではないか。

周囲の期待に応えることや、その時の流行をもとにその時点での夢を語ることを否定するつもりはない。夢は変わるもので厳密さは必要ないし、たまたま答えたことが実現のきっかけにもなる。

自分は小学生の時、凡人と書いていた。
自分が何かになれる可能性を感じていなかったのか、それなりの暮らしができればそれでいい、と思っていたのではないかと振り返るが、当時はとにかく考えたところで思い浮かばなかった。

今も変わらない。自分は将来の夢やキャリアプランを聞かれても、具体的なアイデアを思いつけていない。
社会に少しは貢献するという自分の決まりのようなものに従いながら、家庭を大事にして、ご飯を食べるために一つ一つの仕事をこなしたい、というのが正直な想いだ。

テレビや会社の空気で、やりたいことがある人、ビッグな夢を持つことが理想とされる空気が漂っている。自分はその圧力を感じてしまう。

面接では数年後のキャリア、会社を通じて成し遂げたい夢を聞かれ、コンフォートゾーンを抜け出せと言われ、本屋には同様の文句が帯に載った本や逆算的思考のような本がならぶ。

このようになっている背景には、「わかりやすさ」の呪縛があるのではないかと考えている。

各個人の観点では、夢=答え、自分の目指すべきゴールのようなものがあれば、日々の取捨選択や行動を根拠づけることができ、迷いのないとても分かりやすい生活を送ることにつながる。

会社としては、個人の確固たる夢があれば、キャリアのサポートなどやりやすいし、会社が夢の形を与えてそれに従わせることもできる。

具体的な夢があることで、私はこんな人です、あの人はこんな人です、だから〇〇なんです、とすっきり安心できる。

でも、その安心には大きなストレスをはらんでいる。
そのストレスは、理想と現実のギャップから生まれるもので、時に成長やそれによる社会貢献の強い推進力になる。

ただ一方で、多くの人の心はあやふやで、フラフラ動くはずのものが、あるキャラクターに固定されてしまって、窮屈な思いをしてしまうことはないであろうか。

私はこんなことを言いながら、恥ずかしながらそれなりに昇進したいなども考えてしまっている。上司との面接でも、その時のテンションで昇格の意思を伝えたこともある。

でも少し時間がたつと、冷静になって間違いを恥じる。
私は、自分の幸福のようなものを他人と比べてしまうようである。
口を開けば、「足るを知る」ことを理想としていながらである。

他人と比べてしまう性質を受け入れながらも、道を踏み外さない「それなり」を目指して冷静に判断していきたい。

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