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盛大に携帯を

変えたわけではない、至って普通に変えた。それも新しい機種を買ったのは二週間以上も前なのに昨日までまったくもって手をつけず。もしかしたら俺が浦島太郎だったら玉手箱は開けずに物語は終わっていたかもしれない。写真やラインが受け継がれないよりもSpotifyにログイン出来なくなったことに目からは山の雪解け水のような涙が流れていたが、無事解決。ありがとう妹よ。

「新機種」という言葉にときめかなくなったのはいつからだろうと思い返してみたがもともとそこまでときめく方ではなかった気がする。いま現在使っているのはiPhoneだが、折りたたみケータイからこれに変えたのも単に使ってた折りたたみケータイが壊れたという理由からだ。その時も折りたたみケータイはあったものの、なーんかこうグッとくるものがなくiPhoneにした。そう考えるとその時はちょっとはときめいていたのでは?

折りたたみケータイと連呼しているが世間での呼び名は「ガラパゴス・ケータイ」略されてほぼ「ガラケー」といか名前で呼ばれている。日本独自の進化を遂げてきたことから、ガラパゴス諸島の生態系にあやかってそう名付けられたらしいが、"ガラパゴス=進化の止まった"とか、アニメ偽物語の次回予告にて貝木泥舟という偏屈で頭のキレる人物が"世話になったケータイをガラケーだなんてガラクタみたいに呼ぶ人間にはなりたくはないということだ"と言っていたり、ガラケーという名称にいささか反論や異議を唱える方々もいたらしい。ちなみに俺が折りたたみケータイという呼び名にちょっと拘るのは、「折りたたみ」の「たた」部分を噛まずに言うことができるからというのが理由。滑舌が良くないのでよく噛むのだがこの時に至っては「たた」と小気味良いドラムロールのように唱えることができる嬉しさがある。そんなささいもささいなことに幸せを感じてしまう。そんなよく分からん視点からにはなるが、折りたたみケータイには感謝している。

先ほど出てきた言葉、ガラクタは、ガラガラという音、ちりあくた(ゴミの意味)からそう呼ばれまさに使い道のない使うあてのないものというそのまんまの意味だが「我楽多」とも当て字される。この字の当て方がすきだ。「我を楽しませる多くのもの」他の人や目から見てもどうしたってガラクタであっても、それは自分にとって。またはその人にとっては我楽多なのだ。

おれ自身ももしかしたら誰かにとってはガラクタかもしれないし、はたまた我楽多かもしれない。多くなくとも誰かを楽しませられているのならそれは嬉しい事だ。そんな深いような浅いような事と、自分は機械音痴だとあらためて思い知った瞬間だった。

月は変わり三月。もうすぐ春めいてくるころだろうか、ちょっと気取ってみませんか?みな誰もが蕾、咲き誇れるはず。あなたに春が訪れることを願って。どうかすこやかに。



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