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布谷文夫

悲しき夏バテ[73]-布谷文夫I
POLYDOR(FIRST PRESS ORIGINAL)

[ULTRA RARE/MEGA RARE!Trading At A Higher Price!/It does not come out rarely!/Gate Fold Cover*(Japanese Pop)Rare ItemとしてはTop Classの希少盤として知られる大名盤!]

1947年1月25日、北海道函館市出身。専修大学経営学部在学中の1966年に友人と東京R&B5を結成し、音楽活動を始める。東京R&B5は翌年の1967年に解散するが、その後、大瀧詠一/洪栄龍らと共に東北出身在京者中心の(タブー)というバンドを結成。ギター洪栄龍/ドラムは大滝。レパートリーは寺内タケシの(元禄花見踊り)~ギターのインスト で(グリーンフィールズ)~ストーンズの(サティスファクション/ハート・オブ・ストーン)と異常に幅広かった。布谷はここで知り合った大瀧に中田佳彦を紹介する。大瀧は中田を介して細野晴臣と知り合うことになる。1968年にザ・ジャガーズの弟分バンドだったビッキーズに参加*ギター洪栄龍、(東京R&B天国)に出演して5週連続勝ち抜きを果たす。ビッキーズはメンバー交代を経て(BLUES CREATION-ブルース・クリエイション*竹田和夫加入/洪栄龍脱退)に。1969年に竹田和夫/田代信一/野地義行らと(BLUES CREATION)同年7月に(日本グラモフォン-ポリドール・レコード)よりアルバム(BLUES CREATION)を発表。9月には第1回の日本ロック・フェスティバルに出場した。1970年にBLUES CREATIONを脱退、洪栄龍/内藤正美らと(DEW)結成。第3回全日本フォークジャンボリーに出場するなど精力的な音楽活動を展開するが、わずか2年でDEWを解散し、1972年にソロシンガーに転向。ソロ転向後、1972年8月にビクターレコード(ビクター・ポップ)より(空のベッドのブルース*ベース:細野晴臣/ドラム:松本隆/ピアノ:矢野誠)を発表。1973年3月、ごまのはえ上京/大滝宅そばに居を構える。布谷がよく寝泊りするようになったのもこの頃である。1973年5月の第3回春一番ライブ(大阪天王寺公園野外音楽堂)に、ごまのはえ(伊藤銀次が所属していたバンド)と共に出演している。ごまのはえをバックに(Dr.John & Night Trippers)顔負けのすごいステージを見せた。ドラムが上原裕/ギターが伊藤銀次で、女性コーラスが5人くらいPercussionなどの大所帯。上原裕が叩くSecond lineのドラムと、フリにあわせて踊りながら歌う女性コーラス、そして布谷の歌が、強烈な印象を与えた。日本ロック史上最も激烈なVocalistが牙を剥く!はっぴいえんど解散コンサート出演。(冷たい女)他を熱唱。1973年11月ポリドールより大瀧詠一が、A面収録曲の内3曲[冷たい女/夏バテ/颱風13号]をProduce、Album(悲しき夏バテ)発表。セールスは数百枚。大瀧詠一がProduceしていたバンド、ココナッツ・バンクがバックを務めている。おなじみのシンガーズ・スリーという大滝繋がりのMusicianのオン・パレード。演奏はなかなかタイトで、Heavy/Bluesyな味わいがある。大瀧は後に(このレコードを買った人は正に選ばれた人間)と語っている。1975年-1976年にかけて一時活動を中止した時期があったが、1976年2月に大瀧詠一Produceによる(ナイアガラ音頭)(Creditは“布谷文夫 with ナイアガラ社中”名義)を 日本コロムビアより発表。その後もマイペースでの音楽活動を続けていた。サラリーマンを続けるかたわら(ナイアガラ音頭)で再デビュー。ナイアガラ・トライアングルコンサート出演。1978年9月(レッツオンドアゲイン)Recording参加。自名義で(レッツオンドアゲイン/呆阿津怒哀声音頭)を収録。2012年1月15日、日本のロックの草分け的存在として60年代後半から活躍/ブルース・クリエーションの初代ボーカルで大瀧詠一の旧友。脳出血により茨城県牛久市内の病院にて永眠。64歳没。北海道新聞には鮎川誠による(真のBlues Manだった)と弔辞が寄せられていた。布谷文夫と聞いてすぐに納得できる人は相当のNiagara Freakだと考えて間違いはないだろう。或いはあの(ブルース・クリエーション)に参加していた事を覚えているという、かなりの和製Rock Maniaだ。布谷はただの一度も日本ロック界の表舞台に立った事のない特異な存在のMusicianだ。かなり癖はあるので、初めて布谷の歌を聴いた方には(?)と云うような印象を持たれても仕方ないと思う。この布谷というVocalistのPowerは全く侮れない。この独特のTime感と絞り出すようなPowerfulな声はOne&Onlyの存在と云える。布谷は大滝のNiagara Labelではかなりの活躍をしている。その独特の声は、ナイアガラ作品群の中でも特にコミカルな曲では大活躍している。一般的な(ナイアガラー=大瀧詠一Fan)にとって布谷の仕事とは(ナイアガラ音頭)での熱唱が有名なところであろう。このロックンロール音頭とでも云うべき独特の愉快な曲は布谷の声無しには完成し得なかった。しかし、布谷と大滝の交友は意外に古くからあって、それは[はっぴえんど]結成より前にまで遡るという。事実この布谷唯一のソロ・アルバムとなってしまった(悲しき夏バテ)は、はっぴいえんどの解散とほぼ同時期にレコーディングされている。それは大滝のNiagara Label発足の前夜という重要な時期である。ナイアガラ構想自体は間に合わなかったが、大滝プロデュースのもと、布谷のFirst/Last(Titleの布谷の名前の横にローマ数字の1と思われる[I]が書かれている)Solo AlbumがRecordingされた。


五番街 作詞・作曲:布谷文夫

冷たい女 作詞:千葉信行/作曲:千葉信行/編曲:多羅尾伴内
*曲が始まる前に布谷が(タバコちょっと取ってくれる)と頼むのだが、プロデューサーである大滝に(ダメダメ、もぅあとあと)と制される。布谷のそんな情けないやりとりがあった後、日本人離れした重たいIntroductionが展開される。さっきの弱々しい布谷からは想像できない逞しいVocalが我が物顔で入ってくる。いつもはお上品なシンガーズ・スリーのコーラスもまるで黒人Soul GroupのようなPowerfulさで聴く者の期待を煽る。

深南部牛追唄 作詞・作曲:多羅尾伴内/銀杏次郎/ジミー蘭越/布谷文夫
*HeavyなRhythmに導かれて布谷節が炸裂する。松任谷正隆(ユーミンの旦那)/矢野誠(矢野顕子の元の旦那)のピアノが実に良い味を出している。

夏バテ 作詞:布谷文夫, 作曲:ANDERS&PONCIA , 編曲:多羅尾伴内 Garnet Mimms「One Woman Man」の日本語カヴァー。
*とにかく名曲。布谷はこの曲を歌うために生まれて来たに違いないと云う位、この曲のCharacterにビッタリとはまっている。このBlues魂溢れる泥臭い雰囲気をここまで表現した日本人には他にいない!途中一カ所、ナイアガラーがニヤリとするPhraseがある。ナイアガラーなら勿論わかるはず。

颱風13号 作詞・作曲:多羅尾伴内
*(はっぴいえんど)で有名な大滝の曲。Arrangeは全く違うので別の曲として楽しめる。大滝自身による奇妙なHarmonyのChorusのRefrainが妙に頭に残る。

ニューオリンズの町へ 作詞・作曲:布谷文夫
ホーボー・ブルース 作詞・作曲:布谷文夫
街のブルース 作詞・作曲:布谷文夫
朝めがさめて 作詞・作曲:布谷文夫
水たまり 作詞・作曲:布谷文夫


Backing Vocals [Chorus] シンガーズ・スリー
Bass 藤本雄二
Drums 上原裕
Engineer, Mixed By 笛吹銅次/北島保則
Guitar 伊藤銀次
Piano 矢野誠/松任谷正隆
Producer, Arranged By 多羅尾伴内/布谷文夫
Steel Guitar [Pedal, Dobro] 駒沢裕城
Written-By 布谷文夫


*ANDERS&PONCIA:Phill Spectorの弟子筋の作曲家コンビ

*中田佳彦:立教大学で、細野晴臣と同級生、有名な作曲家の、中田喜直氏の甥。1967年に、中田佳彦とフォーク・デュオを結成

*ココナツ・バンク(前身は[ごまのはえ]):大阪で(ごまのはえ)というバンドをやっていた伊藤銀次、東京に出てきて大滝詠一にプロデュースをお願いしたところ、はっぴいえんどの解散コンサートに出ろ、と命じられる。大滝は、(ごまのはえ)を(ココナツ・バンク)と改名させメンバー間のコンバートを行い、ヴォーカルは銀次が担当することに決まる。さらに、はちみつぱいの駒沢が加入。はっぴいえんどの解散コンサート参加をするが、コンバートの為にメンバーの間がギクシャクしすぐに解散をしてしまう。大阪から福生に呼び寄せ、メンバーチェンジを強い、バンド名を変更させ、挙句の果てに空中分解。その間わずか半年の出来事である。彼らが残した音源は、大瀧氏のCMのバッキングと布谷文夫氏の全く売れなかったレコード、それと9・21の記録だけ。大瀧詠一のプロデュースで本格的にデビューする予定であったが、実現する前に解散してしまう大瀧は(彼らがデビューしていたらナイアガラ・レーベル第一号Artistsであった)と言っている。ボクが大滝さんに一番怒られた弟子、不肖の弟子だと、伊藤銀次は(大滝追悼インタビュー)で言っていた。

*伊藤銀次:大阪府出身、バンド[ごまのはえ]としてプロ活動開始(72)その後[ココナツ・バンク]へ、ココナツ・バンクの中心メンバーとして、また一時期シュガー・ベイブのメンバーとして活動し、名曲(Down Town)の作詞を手掛け、さらに大瀧詠一のナイアガラ・レーベルからリリースされた(Niagara Triangle Vol.1-1976)への参加、その後も歌手/Guitarist/作曲家/Arranger/音楽Producerとして多彩な音楽活動を続けており(笑っていいとも!)のテーマソング(ウキウキWatching)も彼の作品である。Debut当時の佐野元春のプロデュースを担当。

*大瀧詠一:2013年12月30日65歳で急死

*BLUES CREATION:日本のロックの黎明期にBluesをBaseとしたRockだけを徹底し演奏した孤高のBand。恒常的にMembers Changeを繰り返していた。
第1期(1969年)
布谷文夫(ボーカル)【元・ビッキーズ】
大沢博美(ボーカル)
竹田和夫(ギター))【元・ビッキーズ】
野地義行(ギター)
篠崎淳(ベース)→ブラインド・レモン・ジェファーソン、DEW、ツイン、末法、SKY
田代信一(ドラムス)
志村守(オルガン)
第2期(1969年)
布谷文夫(ボーカル)→DEW
竹田和夫(ギター)
野地義行(ベース)
田代信一(ドラムス)
第3期(1970年)
竹田和夫(ボーカル、ギター)
野地義行(ベース)
田代信一(ドラムス)
第4期(1970年)
竹田和夫(ボーカル、ギター)
野地義行(ベース)→パフ、はっぴいえんどのサポート、霧工場
田代信一(ドラムス)
上村律夫(オルガン)【元・ブラインド・レモン・ジェファーソン】
第5期(1970年)
竹田和夫(ボーカル、ギター)
山崎隆史(ベース)
田代信一(ドラムス)
上村律夫(オルガン)
第6期(1970年)
大沢博美(ボーカル)【元ブルース・クリエイション】
竹田和夫(ギター)
山崎隆史(ベース)→頭脳警察、乱魔堂、雪童子
田代信一(ドラムス)
上村律夫(オルガン)
第7期(1970年)
大沢博美(ボーカル)
竹田和夫(ギター)
佐伯正志(ベース)
田代信一(ドラムス)
第8期(1971年)
大沢博美(ボーカル)
竹田和夫(ギター)
佐伯正志(ベース)
樋口晶之(ドラムス)→カルメン・マキ&OZ、クリエイション
第9期(1972年)
大沢博美(ボーカル)→クリエイション
竹田和夫(ギター)→ブラッディ・サーカス、クリエイション
松本繁(ベース)→ブラッディ・サーカス、クリエイション
内藤正美(ドラムス)→ブラッディ・サーカス、カルメン・マキ&OZ


*所有
大瀧詠一[72]
NIAGARA MOON[75]
SONGS / SUGAR BABE
NIAGARA TRIANGLE Vol.1 [76]
GO! GO! NIAGARA
NIAGARA CM SPECIAL[77]
夢で逢えたら / シリア・ポール
多羅尾伴内楽団 Vol.1 / 多羅尾伴内楽団
NIAGARA CALENDAR
多羅尾伴内楽団 Vol.2 / 多羅尾伴内楽団[78]
DEBUT
LET'S ONDO AGAIN
A LONG VACATION[81]
NIAGARA TRIANGLE Vol.2[83]
EACH TIME[84]

PURE ELECTRIC SOUL[77]-CREATION*所有

DEADLY DRIVE[77]ASYLUM-GINJI ITO*所有
 
 

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