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自然ってなんだ?

自給自足に憧れてはじまったぼくの農業。気がつけば10数年飽きもせず、農業を楽しんで土をいじり続けている。資本主義はその構造上 拡大し膨張を続けることがしあわせの前提条件になっているから今日よりも明日、明日よりも明後日と永遠に膨らみ続けなければ皆がしあわせになれないシステムです。ぼくらの住んでいる地球が無限の星であるならば、その構造でも問題は無いかもしれない。でも、そうではない。限りのある星で無限を求め続ける矛盾、その歪みがいつか表面化して取り繕うことができなくなる日が来ることは容易に想像ができました。そして、膨らみ切った風船が限界に達して破裂する日が、遠い未来のおとぎ話ではない事も容易に想像ができました。膨らみ続ける欲望、減り続けるイス、構造的な欠陥。その時、なにも持たない裸族のぼくが命がけの椅子取り合戦に勝てるとはおもえなかった。家族を守れるとは思えなかった。だから資本主義社会のルールから外れた場所にじぶんの生き残る道を築きたいとおもった。自給自足を目指すことにした。

世界がどんな風に変わっていったとしてもなるべく影響を受けない農業を志向しました。自分の傍にあるもの手に入るものだけで生産を続けられる農業。俗に言われる有機栽培とか自然農というかたちを試みました。そこに至るまでのながい道のりをぼくはひとりでずっと歩いてきたとおもっていた。本当はあらゆるものと同期しながら生きてきたのだけれど、そんな当たり前のことにその頃は、まだ気がついていなかった。

ひとりの時間が長すぎて、人とうまく交流が計れない。どんな距離で付き合えばいいのかわからない。苦しくなって、途絶する隔絶をする。そんなぼくにすら野菜たちは応えてくれた。うまくゆく時もあれば、うまくゆかない時もあったけれど、彼らは底抜けに素直だった。天邪鬼のぼくの心をゆっくりと解いてくれた。繋がっていることが楽しくて、嬉しくて、時間の許す限り畑にいて一緒に過ごしていました。ビギナーズラックだったのかな?最初の年から野菜たちは実りぼくの血肉になって、ぼくを作ってくれた。たのしくて、しあわせで気がついた時には、専業農家になっていた。

自然ってなんだろう?いつ頃からか素朴な疑問が湧いてきた。農薬と化学合成肥料を使わずに栽培することが有機栽培。有機肥料も使わない事を自然農とか自然栽培と言うのでしょうが、厳密には細々とした制約があるのでしょうが、正直よくわからない。細分化して、基準を定め規制をかけて、どんどん間口を狭めて、身内だけを正当化して、他者を排除するのは好きじゃないから細かな部分はどうでもいいがぼくのスタンス、便宜的に使っているだけ、大切なのは、じぶんが正しいとおもうやり方を作物がよろこぶとおもえるやり方を選択し実行すること、答えはじぶんのなかにしかない。形じゃなくて、心でしょってこと

それでも他人にぼくがやっている農業スタイルを簡潔に説明するために『自然農寄りの有機栽培』と言っていました。家庭菜園の時は、それでもよかった。生きるための糧を得る行為だったから矛盾は少なかった。専業の農家になって、じぶんと家族が食べる以上の野菜やお米を育てるようになって、それを売って生活をすることでズレがでてきた。自然ってなんだろう?

作物の種は人の手で延々と改良を加えられて育種されてきました。野生種ではありません。それは自然なのか?生まれ故郷から遠く離れた見知らぬ土地で自らの意思で芽吹くのではなく、人の手で播種され定植をされ管理されながら育てられる。それが自然なのか?農地は、野山を切り拓き元々あった自然を破壊しながら造られてきました。それのどこが自然なのだ?専業農家になって、農地を増やし売り上げを増やす。膨大な作業は交流することを止め効率化とルーチンワークに成り下がる。目に映るものだけで判断し本当の世界のかたちがわからなくなる。ぼくは、こんな農業がしたかったのか?

ちいさな子供は、自然ってなんだろう?とは考えない。そこに在るものは、ただそこに在るだけ、それですべてが充たされている。手にしていたモノを失って、はじめて失ったことに気づく。もう一度取り戻したい。







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