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『なぜ、私は書くのか』の余波。私の場合。

 日本一の編集者、藤原華さんが大好きです。『なぜ、私は書くのか』コンテストの結果発表にまつわる、中間選考のお話の時から。だからゆっくり、他の記事を読んでいます。
 『創作大賞の応募作品を、プロの編集者が添削するとこうなる』は特に好きで泣けて、とろろさんと会った時の描写を生活の中で私なりに反芻してしまうので、あんな風に思考できる事を何とかインストールしたくて…今日も読みました。その、余韻。

 ジャスミンさんの誠意ある発言も、内容も好きです。気持ちのこもった、感情の揺れを想像しながら、それは深い優しさゆえだと伝えたい。
 
 さて。
 お二人の文章を読んでから、私には急速に意識し始めた事があります。今までそんなにも考えられなかったのか、と思いますが…
  
 ①向こう側にいる人について。
 例えば、この文章を読んでくれている人や、仕事で入っている厨房の、給食を食べる子どもたち。引き継いで給食を運ぶ先生、一緒に働く仲間の事など。
 自分のふるまいだけではなく、他の人から「あぁ、そういう風に相手の事を考えているんだ」という視点も持てるようになりました。

②自分の言動に責任を持つ。
 自分がやっていることを最後まで自分で見届ける覚悟。
 責任は自分にある。

 そうして毎日を過ごしている中で、私はふと、あることに気が付きました。だから久しぶりに書き留めたくなってnoteを書きました。

 それは…

 不完全で生き続けることに人間としての価値がある

 ということです。

 何だか、おかしな話ですが、藤原華さんの文章を読んでいると、本当に励まされてしまう。 

「こんな風に書けない、そもそもその視点すら無い自分は浅はかな人間だ」

と思ったし(落ち込んではいません。ここから知れる事の方が大切だし、そもそもやってきた事が、藤原さんとは違うので、私が私の生きてきた過程の中でチャンスを得ていなかっただけだから。今、知れた視点、これこそチャンスだと思ってます。)

とてもじゃないけど

「今に見てろ、やってやる」

とは思えない(ライター志望ではない私の方向性としては)。

でも、それでも

その敗北には色がある。
急に色が付いた。

それだけ、例え今はまだ、全部吸収できなくても、可能性が感じられてくるのです。

書くことや、伝える事が出来るようになる、という可能性と言うには、ちょっと違う。

人生に、やり残したことがあった。

そんな風に。
 
不完全だからこそ、見える世界。
1人じゃないからこそ、完全にはならない事(もし世界が一人だったら、完全も不完全もない)。

「可塑性」って面白く…ないですか?




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