『なぜ、私は書くのか』の中間発表を読んで挑戦してないけどお礼が言いたい。

 恥ずかしい。
 これは、大人として恥ずかしい行為でしたが、これまで私はnoteを自分の拗ねた愚痴でしか、書いて来られませんでした。
 本当は、一見おかしな「なにやってんだ」的な、でも成長し続ける子育ての面白さなんかを、そして読んだ本の感想なんかを書くつもりでしたが、どんどん、私の吐露の場になっていました。

 そんな付き合い方をしていたので『なぜ、私は書くのか』の中間審査について延期することや、ジャスミンさんの記事も通りすがりでしかなく、「何となく」読み始めました。

 けれど…

 実は「中間審査で落とした理由」その記事の事が一日中、頭の片隅で「考えたい事、理解したい事」としてずっと居座り、もしくはその内容の感動がちらちら、ちらちら、私の行動に顔を出してくるありさまでした。

 突然ですが、私にはカウンセラーになる、という夢があります。

 だからこそ、中間発表を延期することから始まった一連の記事を読んで、

「私の欲しかった人との向き合い方だ」

と感情が感動で揺れたんだと思います。

ジャスミンさんや藤原さんのような
「向こう側」にいる人の顔や思考に気持ちを傾けられる人….。
誠意を持って受け止められる人…

つまりは
「全力でクライエントの気持ちや、背景や、私の見えていない世界や悲しみや楽しみや感じ方や、その願い…を想像して誠意を持って聴ける人になりたい」

 実に細かい、その表現の数々を捉えられるその感性や、人としての平等な向き合い方…(私、ジャスミンさんが「落とした理由をちゃんと伝えたい」と思ったその奥から「人との丁寧な平等な向き合い方」とは何なのか、感じ取った気がします)
 
 そして、努力したからこそ見える世界も。

 文章の世界は厳しい。私には、培われていない、まだ見えていない世界がそこには動いていることは分かりました。

 私にとっては、文章力を上げる事と、「扱う」(漢字の通り、「人」の「手」が及ぶ)事の視座を磨くことはきっと結果的に同義になってきます。

 ジャスミンさん、藤原さん、『なぜ、私は書くのか』中間発表について丁寧に考えて伝えて下さった記事は…
 投稿をしていない私にとっても、涙が伝い落ちるような出会いになりました。
 胸の前で手を椀にするしぐさをするような、「これこそ」のメッセージ。

 
 この場を借りて「ありがとう」を書くことが自分の為であるという事は、分かっています。
 変わらない吐露の1つかもしれない。

 でも、それでも、やっぱり、お二人が正面から受け止めて目一杯敬意をしめそうと努めた…「無駄」として扱わないと動いてくれた、そうして生きてきた時間が私に投げかけてくれた事に、お礼が言いたいです。
 ありがとうございました。
 

 

 



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