日本人の血が求めるもの(コリント後書五章十六〜二十一節)手島郁郎

第二十七講
日本人の血が求めるもの

(コリント後書五章十六〜二十一節)

古きは過ぎ去った、もう新しくなったという場合の新しさというのは、新しくなった自分の、『神に和らいでいるという気持ち』は真心からまことに合一していないならば、和解でないですね。

だれでもキリストにあるならば、新しく造られたものである。
その時「ああ、悪かった」といってコンパージョンして、
罪ある者は神の子に変えられるんです。

文語の元訳聖書に「和らがしめる」と書いてありました。

キリストが、まあまあというなだめ役の和解でないです。
もっと徹底した意味における和やかにすることを私たちにしてくださった。
かつ和らがしめる務めを私たちに授けてくださった。

「神はキリストに在りて世を己と和らがしめ、その罪を之に負はせず、かつ和らがしむる言を我らに委ね給へり」
文語訳

「和解の福音」ではなく「和らぎの言
ロゴス」です。

「罪過の責任を負う」という訳も適切でない。

ロギゾマイは、簿記をつけるとき、各科目に分類して「計算する」ことです。

メー、ロギゾメノスですから、
「計算に入れない、帳簿に載せない」です。

「それゆえに私たちはキリストの大使なのですから、神は私たちを通してあなたがたに勧告なさる、
それで私たちはキリストに代わって言う、神に和らげよ」というのです。

十九説に、「その罪過の責任を数えられなかっように」とありますが、このコリントの人たちにも、自分たちのためにも、和らぎの言を置かれたのでした。

キリストは誰も咎めずに、
十字架にかかってゆかれた。
罪を誰かに負わせようとはされなかった。

誰が悪いとは言わずに、
黙って死んでゆかれた。

このことに、パウロやその他の弟子たちは、どれだけ深い感化を受けたことでしょうか。
わからず屋でキリストに迷惑をかけることばかりでしたのに、
キリストは何にもお咎めにならなかった。
こんな和らぎの務めを、
私たちに委ねられている。

私たちはキリストの使者であるから
神が私たちを通して懇願なさるわけだ。

『キリストに代わって懇願する、
神と和らげよ』

キリストにヒュペル「代わって、代表して」懇願する。
ヒュペル
「キリストのために願う」という意味にも取れますが、
ここは「キリストに代わって、
キリストを代表して」ということです。
キリストは自分を大使として、
使者として遣わしておられるから、
キリストの代理としてパウロは願う、
「神と和らげよ」

『神の聖前に立つ心』

神は私たちの罪のために、
罪を知らない方(主イエスのこと)を罪とされた。
それは私たちが、
彼にあって神の義となるためである。

イザヤ五十三にあるように、
みなの咎を負われた。
それは私たちが、彼にありて、
キリストと合一して、
神の義となるためである。

「主にありて、
キリストにありて」とは、
みなキリストと合体した気持ちを
いいます。

元来宗教というものは、
神と和らぐ、
神との出会いであり、
神と人との合一を
求めるところにあります。

人にはなぜか神の前に出られないという被造物としての感情があります。
神聖にして厳かな神様の前には出にくいけれども、
神と和らいで、
何とかして神様の前に出たいという
思いがあります。

パウロは、
その色々な例えとしていっているのですから、
それをそのまま教理にしてしまったら
どめです。

神様は私たちを伝道者として、
ご自分の代理として
立てられておられるが、
伝道ということは何かというと、
「背いている人間は神と和らぐ、
神のみ前に恐れなくでられるようにする」ということが、
大きい仕事であり、使命です。
目的です。

『天孫民族の神観念』

日本語の「まつり」という言葉は意味深く、
人間が神に従い、
神を敬い奉ることです。

人間は生まれながらに神に背きやすく.
まつろわぬものですが、
神に「まつろう」.神に帰順し従おうと
いうところに「まつり」がなされるわけです。

人間が神に対して、
畏敬の念をもって恭順の意を表さなければ、
神に近づくことができません。

『まつりの意味』

人間とかく、神様の前に素手ではなかなか出にくいものです。
それで聖書の宗教においても
何かを犠牲として葬らなければ
御前に出にくい。

宗教感情として己を咎める心が働きやすいものです。
それを罪意識と言いますが、
何かを神様にお献げして、
神の心をなだめたいという気持ちがあります。
これは宗教一般として言っていることです。

『古代日本の宗教改革」

信仰は、
神に随順する精神が第一で、
犠牲はその象徴であるのに
なぜ人身御供があらゆる宗教において
なされたのか。
人間の側に、
神の前に出られないと憚る気持ちがあるからでして、
神様をなだめようと、
供物を献げることを極端に
してしまうわけです。

『柏手を打つ意味』

柏手というのは、
みんなの人の気持ちが一致したことを
表しているんですが、
このように神と和合したいと願い、
神の心を和らげるところに、
柏手を打つ祭祀の意味があります。

『燔祭を捧げる意味』

「祭」という字に月(にくづき)を書いてありますように、
獣の肉を神に献げるのがお祭りです。
また手で献げると書いてあります。
レビ記を読むとわかるように
お供えする燔祭なり
供え物には必ず手を置かなければ、
按手しなければならない。

これは罪に穢れた自分が、
燔祭の供物と、共に屠られて、
罪の穢れをすっかり清算して、
神様の御前にまかり出る者となりたい、
という表明です。

手を置くことは、
羊や山羊などの犠牲の供物と
自分との一体化を現しており、
「燔祭の獣が黙って死んでゆくように
自分も(黙って)死んで、
すっかり罪をご破算にしてほしい。どうぞ私の過去の罪をここで屠ってください」と祈願が込められているのです。

日本における御神饌(ごしんせん)のお供え、
また神楽の奉納というのは、
神の心を喜ばしめるためですね。
あらゆる祭りにこのような
供物はつきものでした。

こうやって祭に供え物や献金を献げたりすることが、
神の心を和らげようとする人の努力でした。
何も神さまの方には人間に和らぐ必要はないわけですが、
人が神の前に出る時に、
神と合一する気持ちを、
まず持つ、
ということがなければ、
祭はできません。

これはあらゆる宗教に通じて
いえることだと思います。

『たまぐしの信仰』

神道では「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」ということを礼拝の前にいたしますが、
これは榊の枝に、
紙の御幣をつけたものを玉串といって神前に捧げます。
玉串の「たま」とは魂のことで
自分の魂を串に刺してでも、
枝を神様の方に献げて、
神霊に結合したいと願うのが、
「たまぐし」の意味なのです。
大切なのは捧げ方です。

玉串の献げ方は、
一見なにか失礼のようですが
葉の方を手前にして、
枝の切り端の方を神様に手向けて献げます。

古代の宗教において、
古代人の観念として、
神の霊は巨大な樹木や岩に降って
臨在すると考えられていました。

ここで小枝の端をささげるというのは
神の親木に接ぎ木されて、
神に合一したいという
感情の現れであり、
祈願がありました。

わたしはぶどうの木、
あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、
またわたしがその人とつながっておれば
その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては、
あなたがたは何一つできないからである。
(ヨハネ十五.五)

ここに『ぶどうの木』の深い意味があります。

『己を捧げる古来の精神』

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