「表裏亜行」 第1話
木刀が弾き飛ばされ、板張りの床に落ちる。立ちあっていた父がやめ!と野太い声を発した。
「負けました。兄様は相変わらずお強いですね」
弾かれた木刀を拾い上げ、微笑む弟に勝者である兄は冷たい口調で言った。
「心にもないことを言うな。父上、私は1人で鍛錬させていただきます」
兄は1人スタスタと稽古場を出て行ってしまった。
弟は袴姿のままパタパタと後を追う。
「兄様、父様が稽古をつけてくださるとおっしゃっていました。一緒にやりましょう!」
パシッと軽い音がした。頬を叩かれた弟はぽかんとして自身の頬に手をあてる。兄はそんな様子を見下ろし、怒りを滲ませた声で言う。
「お前の横で、自分の未熟さを父上にさらせと?」
「兄様、どうして」
「どうしてだと?自分で分かっているはずだ。ーーお前、わざと負けたな?」
兄は気づいていた。立ち合いの最中も、勝敗が決した時でさえ弟は平静だったことを。
「何故勝ちを譲った。俺を馬鹿にしているのか」
「いえそんなことは。僕の実力は兄様に遠く及びません」
それだ、と兄は指さした。
「俺はその目が気に食わない。人を見透かしたような目が」
「ご、ごめんなさい。そんな風に兄様を見ているつもりはないんです。不快にさせてしまって、ごめんなさい」
下げられた弟の頭を、兄は苦い表情で見て背を向けた。
兄の理不尽に戸惑い、怯える弟。兄が去るとすとんとその表情が変わった。はあ、とため息をついて頭を上げる。
まったく面倒くさい兄だ。
何故わざと負けたか?決まってるだろ、求められてないからだよ。この鶴石家を継ぐのは兄と決まっているのに、弟がでしゃばってどうする。
鶴石 笙。武家の次男であり、母に似た端正な容姿の少年である。彼は要領よく生きることを人生の指針としていた。
稽古場へ戻ろうとしていると、使用人の話し声が耳に入った。
「こないだ若い女中が和一様に怒鳴られててさ。八つ当たりだろうさ。勉学で笙様に勝てないから」
「それに引き換え笙様はお優しい心根をお持ちだ。気弱で頼りなくも見えるけどな」
「確かに。もう少ししっかりしていただきたいものだ」
笙は心の中で彼らを嘲笑った。
馬鹿な者たちだ。全部演技なのに、信じきっている。
それはそうと、仕事をサボって悪口を言うのはよろしくないな。ちょっと脅かしてやろう。
にっこり優しげな笑みを作って、気づかず話し続ける男たちに近づく。そのとき、男の1人がこう言った。
「そうでしょうか。俺は強かな方だと思います」
笙は思わず足を止める。男2人はその言葉に怪訝な顔をした。
「はあ?笙様のどこを見たら強かなんて言葉が出てくるんだよ」
「ははっ、お前は雇われてから日が浅いから知らないんだ。笙様は和一様に何を言われても縮こまって言い返さない人でな」
いかに笙が情けない男か、ぺらぺら話していた男がぎょっと目を見開いた。
「しょ、笙様」
「やあ、楽しそうだね。何の話?」
「あぁ、聞いていらっしゃらなかったんで......」
男2人がほっとして胸を撫で下ろす。笙は不思議そうな顔をして、もう1人の男の顔を覗き込んだ。
「君は新しく雇われた人かな」
男は長身でしっかりとした体つきをしていた。くしゃくしゃした髪で、目が若干隠れている。威圧感のあるその見た目とは逆に、彼は礼儀正しかった。片膝をつき、まるで主君と対するかのように頭を下げる。彼は落ち着いた声で言う。
「先週よりここに身を置いております。弓月と申します」
舐められがちな笙にとって、このような反応は新鮮だった。
「ふうん。目立つのに気づかなかったな。僕は笙だ。よろしくね」
「恐縮です。ご用があればいつでもお呼びください」
この面白い男ともう少し話したかったが、稽古場に戻らなければならない。また見かけたら声をかけよう。
「それじゃ、みんな仕事頑張ってね」
「はっはい!」
さあ隅々まで掃除するぞと気合いを入れている声を聞いて、笙はくすりと笑った。
三日後の昼のこと。笙は突然父に呼び出された。
「留学に行ってこい」
「え?私がですか」
父はあぐらをかいて、何かの書状に目を落としたまま、ああと返事する。急すぎる。それに何処へ?
「西の方に華明という国がある。国名だけでも知っているだろう」
「鎖国状態にあるというあの国ですか。他国より頭ひとつ抜けて豊かだと聞きます」
「そうだ。その国は留学生だけは受け入れている。行って見聞を広めてこい」
謎多き国を見ることができる特別な機会。笙は心臓がどきどきと高鳴るのを感じた。うわずった声で尋ねる。
「で、ですが何故私なのです?兄の方が相応しいのでは」
「旅には事故がつきもの。後継を行かせて死んだら笑えん。それにお前は勉学が好きだろう。気負うことはない。旅行のつもりで行けばいい」
笙の気持ちは決まった。
そのとき襖が開き、母が入って来た。母は顔を蒼白にして、ふらふらと歩み寄ると強く笙を抱きしめた。息苦しいくらいだった。
「母様?」
「笙、行くのはやめなさい」
え?と問い返すのと、父が鋭く母の名を呼ぶのは同時だった。
「こと。笙に好きなことをさせてやりたいと思わぬのか」
「あなた、あなたは......」
母は信じられないといった目で父を見る。父は厳しい口調で部屋に戻れと命じた。
「いつまでも子離れできなくてどうする。後で話をする時間はつくってやるから、今は部屋にいろ」
父と母は睨み合った。それはほんの数秒だったが、普段穏やかな母がそんな目をするのは初めてで、笙はただ戸惑うばかりだった。
「......分かりました」
母が去ると、父はため息をついて言う。
「あれは、海難で兄弟を亡くしているのだ」
初めて聞く話だった。
「お前も死んでしまうのではと思ったのだろう。だが今回は幕府の立派な船だ。そうそう沈みはせんよ」
さて、と父は立ち上がった。
「私とてお前を思う気持ちはある。これをお前にあげよう」
渡されたのは父の脇差だった。
「これは父様の。本当にいいんですか」
「ああ。護身用に持って行きなさい」
笙はぱっと笑顔になったが、そんな様子を父は憐れむような目で見ていた。
出立の日、笙の隣にはあの長身の使用人、弓月が立っていた。身の回りの世話をさせるために、供の者を1人だけ付けていい決まりなのだ。
母は昨日の晩泣いていたようで、目が赤くなっていた。笙の手を取る。
「これを」
渡されたのはお守りだった。
「高名な祈祷師にいただいた札を入れてあります。肌身離さず持っていなさい」
ぎゅうと抱きしめられ、笙は母の肩越しに兄の姿を見た。兄は遠くからこちらをじっと見ていたが、目が合うと背を向けて行ってしまった。
「必ず、必ず帰ってくるのですよ」
「はい。母様。沢山のことを学んで帰って来ます」
行ってまいりますと笙は笑顔で父と母に別れを言った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?