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デジタルアーカイブと国民意識などについて



 既存のアーカイブとデジタルアーカイブの違いは?これは膨大な量(とはいえ書類換算した場合のもの)の情報を扱えるという意味として捉えられている。しかし膨大な量が収められるという利点を嫌う向きもまたいるだろう。例えば過去の研究に不備があることを認めたくない勢力の存在が考えられる。
 先日万有引力の法則の例外が発見されたときに、学者は絶望し新しい理論が切望されたという動画を見た。良い言い方をすれば、既出の論理に心酔しそこに手を加えず自身の論拠にしてしまったがゆえに生じる矛盾に、新たな理論の解釈という解体作業・改修作業を常におこなわなくてはならなくなった、学派という歪な学者の集団が見てとれた。
学派は宗教のように教義を守ることに腐心し、開祖の目指した真理への到達の一つのアプローチを絶対的な王道としてその権威守り続けることに目的がすりかわる。

 私は判断というものは、個々人の知識と意思による物であるべきと最近思う。そのための様々な公平な立場でのその時々の情報の膨大な蓄積が、今後のアーカイブの主たる目的になると考えている。知識のための事象のアーカイブにこそ、この先の歴史にとって必要なものではないかと考えている。
 これら多様性を保証するためには、多角的な視点から収集した情報が大量に必要になると考えている。量の問題は記憶媒体の倍々進歩が続く限りにおいては、安泰であると思われる。
 現行のアーカイブは目録ありきの発想が主流のようだ。図書館の分類法も参照しつつ、世の中の全てをタグ付けして分類整理することに力を割いているわけだ。
分類には思考が関与するのが現状であり、すなわち思想も少なからず反映する。既存の指標に収集した事象を無理やり当てはめるわけだ。ここに問題がある。判断はすべからず公平であるべきだ。写真≒画像データ一つ取ってみても、様々な思惑の果てにタグづけされる現状は、やはり公正とは言い難い。当面は人格を持たないAIに分類を任せるというスタンスがベターであろうと考える。

 検索結果としての1枚の写真には、様々な検索語が必要となる。近い将来AIが検索のアシスタントとして、人とアーカイブとの橋渡しをするようになるだろう。様々なプロンプトを付与してAIと対話している現状から、推奨される定型のプロンプトを介してより簡易に検索が可能となるだろう。ドラえもんのような子守属性を持った存在、エヴァに出てくるコンピューターマギの様に3つのベクトルを独立して持つコンピューターのような存在、目的に合わせたプロンプトを使用してゆくうちに、プロンプト自体が育ち2023年のAmazonサイトのおすすめの様に、個人の嗜好を汲み取った人格に似たものが生成されてゆくのだろう。
文脈の理解のロジックが解明されれば、文書も映像も音声も検索の対象になりうる。リアルタイムな会話も将来的には一般的な解析の対象となるだろう。

 とは言えここで気になるのは、リアルに発せられた言葉の解釈が、発声者の意図を大きく外れたものになる可能性があると言う事だ。同時通訳の代わりをAIが担うのには足りない要素がまだある。対人では当然の要素、すなわち人種・関係性などの要素が抜けていることだ。
人種により所属する文化の違いがあり、どの程度の知り合いなのかにも発言の意味が違ってくることも当然ある。音声のビッグデータを集積し、解析しない限りこれら問題は解決できないであろう。しかしこれはやがては(ビッグデータの解析が凄まじい速度で完了すれば)問題にならなくなる。
また音声には声色という要素が加わる。文章では現れない要素だ。すなわち感情の起伏によりテキストにその時の気分という人間臭い要素が加味され、文字通りの意味以外の言外の意思ないしは意識が含まれてゆく。感情の変化を抑揚で判断するという、なんとも人間臭いフィルターを通して、言葉の意味を翻訳しなくてはならないというさらに複雑なプロセスを経て、正確な伝達が可能となる。このあたりで不足する処理能力を補完するために、量子コンピューティングが実用化されるのではないだろうか。

 これをもって初めて、人は機械と会話が可能になったと言えるのではないだろうか。そしてデジタルな友人の立ち位置というものも、改めて考えなくてはならない。例えばドラえもんは、子孫がのび太をしっかりさせるために送り込んだ。そこにはだらしない・優柔不断な性格の是正などの意図があった。そういう指令がドラえもんに出されていたと思われる。
同様に我々が将来あいまみえるパートナーに何を望むのかによって、希望のプロンプトを持った何かが訪れることになる、多分。

この手の未来論は一見広い知識を得られるように思えるが、実際のYoutubeのおすすめ動画などをみても、視聴履歴を元に偏った(好きそうな)動画が表示される。そうなると他の種類のものを視聴するチャンスがどんどん減ってゆく。
Amazonの買い物しかり、広い知識を得ている気になっていても、実は狭いジャンルのおすすめばかりに目が行く様になる。結果的に人は大局から離れてゆくとも言われている。このあたりがプロンプトによって是正されてゆくのか、意図せず加速してゆくのかはわからない。ただ選択肢を絞りすぎるのも、物事の本質から外れてゆく、はぐらかされてゆく感じは受ける。人は思考においても楽な方に行きたがる傾向があるからだ。また権威主義でもある。そして他者の意見への依存性も高い。最後の依存性は保身の裏返しでもある。結果的に悪い方向に進んだ場合に、その他者を非難することで自身への反省を回避することができるからだ。人は自己批判が下手な精神を持つ。一対一の立場では人は生存本能に負けて、自己の否定や批判を最大限に恐れる。それが自己批判であってもだ。

社会というグループには同調圧力というものが普遍的にある。特に日本人はそういった形のないものに敏感である。20代の自分は国土の狭さゆえに他者の存在が、外国よりも明確なのがその理由だろうと思っていた。今は少し違った感想を持つに至った。言ってみればサイレントナショナリズムとでもいうものが、この国には過去より脈々と存在し、現在に至っている。それはところどころ、道徳心であったり、マナー、常識といった行動の原理として立ち現れる。しかしその実体は生存の条件である。この島国で生存の鍵となってきたのは、こういった気配りだったのであろう。縄文時代と同時期の海外では、遺体頭部に打撲による損傷が見受けられたと聞く。つまりは不穏分子の撲殺や、反集団的分子の排除の結果であるということだ。これら集団からの殺戮による排除の危機に対応すべく、日本人は対人衝突を避けるべく行動を習得していったのではないかと考察されている。
現在までの日本人の所作には、これら歴史の経験が刻まれているということだ。
少し前から若者の自己弁護に“誰にも迷惑をかけていないから“と言う考えが発明された。しかしサイレントナショナリズムには対象者として“お日様・お天道様“と言う最高の存在が用意されていたのだ。流石にこれには対抗できる文言はないだろう。
この場合のお天道様とは、自身の良心というさらに最高の対象が投影されている。上述の通り人は自己批判というものを回避したがる。それゆえにお天道様が見ているとされると、ある意味国民的な良識にしたがわざるを得ないのだ。
今にして思えばGHQが目をつけた、国民的・社会的・全体的道徳の禁止はナショナルアイデンティティーの破壊に大いに寄与したといっていい。しかしお天道様は相変わらず天にある。それゆえに私たちはまだ古代からの知恵を受け継ぎ続けていられるのかもしれない。

話が大きく逸れたが、お天道様のあまねく広い日差しのもとに立ち現れる様々な事象と、月の明かりのような弱い光のなか現れる輪郭のみの事象、夜の中強い一条の光に照らされた狭い対象、こんなイメージでどういったアーカイブの存在が理想であるのかを考えることで、具体的なイメージを持てるのではないだろうか。
何れにしても量の問題は解決される、ほぼ間違いなく。その前提で、記録の本体の種類やサイズには、制限をかける必要はないのではないかと思っている。むしろ収集の手段と方法を確立し、やがて来る大量データの認識方法を検討しておくというのが、現状できる最上の方法論なのではないだろうか。

データ(アーカイブ)・検索手段(AI)・プロンプト(個性)という構成で、可能な限りの過去の情報・日々流れてゆく現在の情報を取得してゆくことで、未来に多様な過去を残して行けるのではないかと考えている。
先々のデバイスの進化や、求めるデータの形式が変わったところで、元となるアーカイブが必要十分な要素を持っていれば、未来の要求には応えられるのではないかと思う。今の私たちは、自身の世代の忘れ物を取り戻す事にばかり躍起になっている様に思える。ひとまず今の積み重ねが過去になるという意識のもと、今の記録をより広範囲に進めてゆかねばならない。

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