小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第20話

1月20日

朝ご飯は缶入りパンとペットボトルの水が配られた。
缶入りパンは食べず、まだ残していたスイートポテトを食べる。
白湯も飲む。
なぜかウインナーに粒マスタードをつけて食べたいと思う。
ここ数年、ウインナーは油っこいと思って、全然食べていなかったのだが
体が求めているのだろうか。

今日は私の隔離解除の日だ。
夫は熱がまだ下がらないそうだ。
夫の検査結果が出るまで、隔離部屋で待つことになった。
息子も微熱があるそうで、夫と一緒に検査をすることになった。
結果は夫は陽性で、息子は陰性だった。

夫が家庭科室にやってきた。
息子もみなし陽性になって家庭科室にくるかもしれないと
いうので、私はそのまま待機していた。
夫も息子もほとんど症状がないというのが救いだった。

看護師さんが「お子さんは来ないので、移動していいですよ。」と言った。
隔離部屋のみんなにお世話になりました、と挨拶してまわった。
私は体育館に移動し、ランチルームには戻らなかった。
体育館は寒いけれども、息子を一人にしておくわけにはいかない。
看護師さんが荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
こうして隔離部屋生活が終わった。

体育館に入ると、小学校のスリッパに養生テープが貼られて、それぞれの
名前が書いてあった。
「スリッパに名前を書いてください」という紙がはってあり、
テープと油性ペンが置いてあった。
苗字だけ、名前だけ、フルネームとみんなばらばらだった。
フルネームのほうが間違えないと思って、フルネームを書いた。

体育館のパーティションは、プラスチックの支柱に、結束バンドで
段ボールが括り付けられており、わりとしっかりしたものだった。
一つの部屋は正方形で、一辺が約2メートルほどだった。
天井部分と入口部分は開いている。
そこに、今まで使っていたマットをひき、毛布と寝袋で寝ているのだった。
着替えができるというほどではないが、少しはプライベートな空間ができた。
床にじかに寝ているという意味では今までと同じだ。

上から見ると、アルファベットのHの形のように2部屋がくっついていて、
それが10個つながっていた。
つまり1列に20個の部屋がある。
それがもう1列あったので、40個の部屋ができていた。
1部屋に1人か2人なので、80人近い人が暮らしていることになる。

ストーブの数も最初よりは増えていた。
それでも暖かいのはストーブの周りだけで、全体としては寒かった。

私が隔離されている間に、体育館にはテレビ1台が設置されていた。
ランチルームにも1台あった。
でも見たいのはニュースくらいで、それ以外のものは見たいという気持ちになれなかった。

息子に熱やその他の症状がないか聞いたが、大丈夫といって、横になっていた。
「お母さん、戻ってきて嬉しい?」と言ったら
どういう意味かわからないというような顔で
「うん。」と言った。
一週間以上離れていたが、変わっていないようでほっとした。
同じ部屋にいるのは狭いかと思って、隣の部屋にいた。

全員に配られたというレジ袋に入ったお菓子の詰め合わせを
息子からもらった。
私は隔離部屋にいたが、籍があるのでもらえたそうだ。
スナック菓子などが入っていて、少しはお腹が膨れそうだった。

昼はカップ麺を息子の分も作ってもってきた。
それぞれの部屋で食べた。
息子は食欲はあるようだった。
このまま熱が出なければいいのだけれど。

ご飯の後はタブレットで茶碗を検索した。
案外ぴったりとくるご飯茶碗は見つからない。
割れたご飯茶碗も柄は気に入っていたのだが、少し大きかった。
検索に疲れると、電子書籍(漫画)を読んだ。
地震前はこんなにタブレットを使わなかったのだが
これ以外にすることがないと思っていた。

義母から連絡があり、義父は精神科の病院に入院することになったと言った。
なぜ介護施設ではなく、病院なのかはわからなかったが
質問はしなかった。
質問したところで、変えようもないからだ。
義母は金沢駅近くのホテルだそうだ。
今が大変な時期だから、頑張ってねとも言われたが、
何を頑張れと言うのか、わからなかった。
地震が起きてから、がんばらんかね、とよく聞いたけれど
がんばり方がわからない。

コロナになって、ボランティアは完全にやる気を喪失してしまった。
(しかし、結局、トイレ掃除ボランティアは退所まで一度も連絡がないままだった。)
家の片付けは少しずつならできると思う。
それ以上のことは何もできる気はしない。

夜はご飯と八宝菜だった。
うずらは入っていなかった。
息子は寝ていたので、取ってきて置いておいた。
ご飯の後で、もらったお菓子を少し食べた。
息子の部屋をのぞくと、起きてご飯を食べていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。」

支援物資置き場に行ってみた。
10分丈のももひきがあったのでもってきた。
普段は履かないが、体育館で寝るためには防寒の服はたくさん欲しい。

支援物資の中には単の着物があった。
こんな冬に着物を着る人がいるだろうか。
冬でなくても、着物を着る人はほとんどいないだろう。
要らないものを送ってきただけではないだろうか。
これから後、見るたびに複雑な気持ちになった。

支援物資置き場の隣の教室が空いているのが見えた。
二次避難などでいなくなったのだろう。

体育館は夜は9時半に消灯すると決まっていた。
どうせタブレットを見る以外にすることはないので、それでよかった。
歯磨きをして、9時過ぎにトイレに行くようにした。
夜中に起きて、外のトイレに行きたくない。
地震前、一日の最後のトイレは11時頃だった。
普通の生活がどれほど恵まれているものか、考えさせられる。

夜中にストーブが消えて、冷えてきた。
眠れないほどではなかったので、毛布にくるまってそのままうとうとしていた。
夜もトイレに行く人のスリッパの音が響いた。


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