小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第2話

1月1日深夜~2日


体育館は寒かった。
入口の温度計では10度ほどしかなく、コートを着ていても眠れるような
暖かさではなかった。
歯がカチカチとなりだした。
ランチルームにはエアコンがあり、横にはなれないが椅子とテーブルで
座って過ごすことはできるというので、私だけ移動することにした。
この小学校は全校生徒がランチルームで給食を食べる。
私も給食を食べた懐かしい場所だ。
首が痛くなるから普段はやらないようにしているのだが
テーブルに肘をついて、頭を支えて目をつぶる。

携帯が鳴った。母からだった。
祖母が救出できたので、迎えに来てほしいとのことだった。
両親は車ではトンネルが通れなかったため、
そこから車を降りて、歩いて家にたどり着き、
母が祖母を呼んだところ、返事があったのだそうだ。
それで、父と近所のMさんの二人でものをよけるなどして
ひっぱり出したとのことだった。
父も母も祖母を置いていったことを大変後悔していて
それこそ必死で救出したのだった。
「ばあちゃん、よかったねぇ。」
シルバーカーを押さないと歩けない祖母と一緒に
私は小学校に向かった。
祖母は助けられた時のことをしきりに話していた。
「Mさんがおらんかったらどうなっていたか。」
道路に亀裂が入っていたので、シルバーカーが通りにくかったが
なんとかたどり着いた。
避難所では名簿を作成するため、来た時に名前や住所などの記載を求められる。
記載するときに、家の中から助け出してきたんです、と
ボランティアの人に言うと、
祖母のために、何かわからない形の青いカバーを持ってきてくれた。
それを祖母の肩にかけてランチルームの丸椅子に座った。
後で両親も小学校にやってきた。
母と二人、カイロで祖母の手を温めたりしていた。
カイロは避難所に来る時に家から持ってきていた。
エアコンがあっても眠れなかった。

朝になって、ラップにくるんだおにぎりが配られたが、やはり2人で1つだった。
さとうのごはんじゃないかな、と母は言った。
私は気が付かなかったが、そうだろうと思えた。
避難所では名簿を再度作成するので、名前や住所、いつも飲んでいる薬などを記載するように求められた。
私の家と両親の家から、寒さをしのぐための毛布などをとってきた。
私の家は物が散乱しており、食器も割れていて靴を履いて入るしかなく、何がどこにあるかもわからないほどだった。
家自体はぱっと見は亀裂が少し入っている程度だったが、
あの揺れを体験すると、今後も家が大丈夫とはとても思えなかった。
昼もおにぎりはもらえた。
昼からは家で毎日飲まなくてはいけない薬を探した。
無駄な薬が多くて、細かな薬を片付けるのに苦労した。
常温で日持ちする食べ物も少し持ってきた。

歩いて避難所に向かう途中、さざんかのある家に雀がたくさんいて、しきりに騒いでいた。
夫は義父(夫の父)が家に帰るといって、市役所から帰ってしまったという
連絡をうけて、実家に向かった。

夕方になり、女の人がリストを手に薬を持ってきた。
それは古い名簿で、先ほど新しい名簿に記載しましたよというと、
対策本部に戻っていった。
女の人は新しい名簿を持ってまわり、高血圧と高脂血症の薬を必要な人に3日分の薬を渡していった。
母と祖母と父の番になったときに、袋を見て気づいた。
女の人は近くの個人医院の医師だった。
私も診察してもらったことがあります、ありがとうございますと礼をいった。
数年前にインフルエンザになった時に行ったきりなので
私のことはきっと覚えていないだろう。
お金はいらないと言われた。
感謝の気持ちを伝えたくて、家から持ってきたお菓子を渡した。

祖母はこの日、2回しかトイレに行かなかった。
大丈夫か心配になった。
祖母のような足の悪い人は校内のトイレを使用できるが
歩ける人はプールにあるトイレに行くことになっていた。
プールの水をバケツに入れておいてあるので
それをタンクに入れて流すのだった。
もちろんほぼ外なので、
雨が降った時は傘をさして行かなくてはいけないくらいだった。
寒くてあまりトイレに行きたくなかった。

夫に「義父はどうなったの。」と聞いた。
苦い顔をして、誰のいうことも聞かなかったのだが、高齢者福祉施設で働いている近所の人が説得してくれて、やっと市役所に戻ったと言った。

夜ご飯はなかなか来なかった。
近所のDさんが作ってくれたおにぎりを食べた。
自家製の梅干しが入っていて美味しかった。
この辺りでは梅干しを家庭で作る家が多く
祖母と母も以前は作っていた。
父は弟の家に泊まりに行った。
弟の家は実家のすぐそばにあり、一部損壊程度で済んでいた。
夜の10時に例のおにぎりがきた。
おにぎりは食べずに置いておいた。
その時はどうしてこんな時間になったのかと思っただけだったが、
今になってみると物資が届かず遅くなったのだろう。
私と祖母と母はランチルームにいた。
ランチルームはテーブルの間などにアルミマットなどを敷いていいことになったので、床の上ではあるが、今日は足を延ばして寝ることができた。
コートも靴下も着たまま毛布にくるまる。
夫と息子は引き続き体育館にいた。

そして停電になった。
エアコンが止まり、母も寒いと言っていた。
いつ復旧するかもわからない停電は心配だった。
暗い中で小さな光が走った。
これは私の網膜に穴が開いているからだった。
以前に穴が開いて、手術したことがあるのでわかる。
個人医院の眼科がかかりつけのため行きたいが、いつ再開するのだろう。
隣に寝ていたどこかのばあちゃんが大きな寝言を言うと、
祖母も寝ぼけて、畑に行くから飯をくれ、と言った。
祖母は11月に心臓を悪くして一度入院してから、畑仕事を禁止されている。
今でも畑に行きたいのかと切なかった。
一時間おきくらいの細切れの睡眠になった。






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