高級フレンチの孤独

これは、ただの個人的なみっともない独白であるから読まない方がいいと思う。もし、人生の時間を無意義に過ごしたいのであれば、読んでもらってもよいだろうが。



孤独についての認識が違うのだなという人の意見を見聞きした。

話を聞く限り、彼等にとっての孤独は高級フレンチのような孤独、或いは大都会の真ん中にある洒落た酒場のような孤独なのだと思う。

大きな皿に難しい名前の小さな料理が運ばれてくる孤独。数百年ものの洋酒を口に含み喉をくぐらすだけの孤独。

そうした孤独はいつも、どこか上から目線に映っている。孤独を肴に酔っていて、まだ余裕綽々といった印象がある。


寧ろ、孤独は彼等が思うより更に、みっともない感情なのではないか。

オイディプスの孤独は、盲人の意見に耳を傾けることもなく事件を追求する執拗さにある。蒲団における時雄は妻子持ちの作家であるのに、一回り下の何も成していない娘が残した香に涙する。


また、古代から連綿と続く悲劇は、何も道徳教育を目指したものではなかったであろう。

物語からの教訓を得て、高級な孤独を深められる様な人間。さぞかし彼等にとっての芸術は、良い教科書となるのであろう。


孤独は、いつも汗や涙や吐瀉物で口を潤わせている。孤独は、いつも熱を求め躍り狂っている。孤独は、その執拗さによる自壊を自覚しても、尚も進み続ける。

こうした孤独を目の前にした時、余りの品性の無さに目を背けたくなること必至だろう。けれども、フレームを引いて、切れ目のないワンシーンワンショットで眺めた時、初めてその壮大な人間の感情の複雑さや超大な自然の時間を知るのではないか。


こちらには、生命の鼓動が脈打っているように思う。決して、綺麗なものではない人間の獣性。そこを右往左往して自身の足で歩む中にしか生まれ得ない孤独。

そうした孤独しか今のこの私は生きられないのだと感じている。

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