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言葉は変わる ☆81

だいぶ昔、團伊玖磨『パイプの煙』
(当時人気のエッセイ)を愛読書としており、私は彼をリスペクトしていて、そこに書かれてあったのだが、

團伊玖磨は「支那」という言葉を差別語、侮蔑語とするのがおかしいとの趣旨を述べていた。

昔、そう言って中国人を侮辱する意味で使った日本人が多くいたようで、当時は中国人からそのような意見があったり、風潮があったものか、(今でも?)支那という言葉は使ってはいけないと主張されていたのだろう。

以下はそれに対する團さんの意見だが、英語ではChinaと言うが、それは「秦」を中国人が発音したものを英語読みしたのだし、支那もそれとほとんど似た発音なのに、それがどうして片方は良くて、こちらは差別になるのか?

では、それを禁止したら東シナ海は何と呼べば良いのか?「支那そば」と言うのも禁止するのか?

「支那料理」を「中華料理」なんて呼ぶととても不味く感じる、

などと言うことが書かれていたように記憶している。

言葉は時代と共に印象が変わる。

私がそれを読んでいた40~50年前、この文章の論旨にはだいたい賛成したのだが、自分は「中華料理」と聞いても、別に不味くは感じないと思った。

戦中派の團さんは「支那料理」が当たり前だったのかも知れないが、私の子供時代、すでに中華料理という呼称が定着していたから違和感は何もなかったのである。

けれど、中国人の前では「支那」という言葉は封印して置こうと思ったものであった。

さて、昨日、今日とスクーリングに行って来たのだが、

昨日書いた記事は、なんだか中途半端で終わってしまった。

寝不足と、授業の疲れもあるが、文章の中に「発達障害」という言葉を使ったら、キーを打つ指がハタと止まってしまったのである。

なんだか文章全体が重くなり過ぎて、次が続かなくなってしまった。

これは、「障害」という言葉が強過ぎるのだ。それは私が表現したかった事と違うのである。


『ダンジョン飯』のエルフ、マルシルは言った、


「魔法に善も悪もない」と、使い方があるに過ぎないと。

言葉だって、単なるツールに過ぎず、もともと善も悪もなかった筈なのに、ある色が着くと、その印象はなかなか消せなくなってしまう。

「障害」という言葉が入ると「かわいそう」と着色されてしまうのである。

いや、私はジミー大西さんを「かわいそう」だなんて少しも思っていない、それなら笑えなくなるではないか、

さんまも、ビートたけしも、ダウンタウンも「アホやなぁ」とか「オモロいな」と思っているだけだろう。

私は落語が好きだ。落語にはお馴染みの与太郎や阿呆がよく登場するし、欠かせないキャラクターだが、彼等は別にかわいそうな存在ではないのである。

今日、私は休み時間に先生に質問してみた、「障害という言葉が強すぎます、もっと他の言い方はないのでしょうか?」と。

先生が教えて下さったのは、「その通りです」と、しかし、「障害という言葉を使う事によって、支援を受けることが出来るのです。だから、これは申請する時に必要で使うだけで、相手に使ったりはしない」のだ、という説明であった。

時代とともに言葉も代わり、言い方としてはLDとか、症候群を使うように変わって来ているそうだ。

なるほどなぁ。




学ぶ事は面白い、

ちと大変なのは仕方ないのだが。

発達障害について学ぶと、どうしてもリアルな修羅場の体験談もミッチリ聞かされる事になるから、理想論だけの話ではないのだが、

でも、たった2日の授業だけでも、受ける前と今ではモノの見方が変わったような気がする。

今日は心地よい疲れに満たされている。この気持ちが持続出来れば良いのだが。


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