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寄席通い ♯2☆103

ビートたけしの「浅草キッド」の歌詞に、

>いつか売れると信じてた♫
客が2人の演芸場で~♫

とあるが、私はこの状況を昔の池袋演芸場で何度か経験した事がある。もちろん客側として。

先日池袋演芸場の話を書こうと思ったのに、何故か上野鈴本と若竹の話になってしまった。

客が2人の演芸場で、客として落語を楽しむ事が出来るのか?と問われれば、微妙なのだが、漫才はキツいものがあるけど、落語なら楽しむのに少人数は、そんなにも苦にならない。

落語というのは、稽古の時に1対1で稽古するものだし、営業の形として、旦那に呼ばれてお座敷で、1人か2人の為に芸を披露するのは普通にあった事だから、ある意味とても贅沢な遊びをしていると思えばなんて事ないのである。

けれど慣れない客は、人数が5人くらいでソワソワしだし、トリが残っているのに1人、2人と逃げ出してしまうのだ、もったいない。

私が通っていた昔の池袋演芸場は、畳敷きの寄席で座布団を持って行って、好きなところに座るのである。キャパは150人くらいだが、正月とか滅多に出ない大看板が来た時などは膝送りをして300人近く入れたらしい。

お茶子さんのお婆ちゃんが2人いて、小さなお盆に急須に入ったお茶と煎餅を売っていた。

今は落語芸術協会と落語協会が交代で番組を作っているようだが、その頃は5代目柳家小さん(永谷園のCMやってた人、人間国宝)率いる落語協会だけだった。

番組は10日ごとに変わったが、私は週2回くらいのペースで通っていたが、好きな人が出ている時は毎日のように通ったり、代演の札が出て、お目当てが休んでいる場合は入らない事もあった。そうして、余程の事がない限り、土日には行かなかった(混むから)。

私は何がしたかったのか?たぶん、江戸や明治の頃の寄席の雰囲気を味わいたかったのだ。

落語を聴く装置としての、池袋演芸場のスペックは、おそらく最高だったと思う。ホール落語では何百人と集客できるが、落語とはそもそも座敷芸であり、お話しをするだけなのだ。大ホールで聴くものではないのである。

映画もテレビもない頃、娯楽は寄席か芝居だったが、芝居は高いので庶民の娯楽は寄席であり、東京には沢山の寄席があったのである。

>まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。 内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。 当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は、30軒。(明治40年Wikipedia)

私はその頃、池袋演芸場を近場にある「近所の寄席」に見立てて通っていたのだ。

でも、当時の池袋演芸場に出ていた芸人達はみな上手かった。ただ時流には乗れなかったというだけで、話芸の実力は本物だった。漫才師も上手い組みが幾つもあった。

落語には四季があり、季節ごとに出る演目はだいたい決まっている。

古典落語は、前座であろうと柳家小さんであろうと、やる噺の内容は同じなのである。「時そば」は誰でも大同小異なのに、やっぱり演る人によって力量の差が歴然と出てしまうのだ。

5代目柳家小さん師匠は、テレビにも良く出ていたから覚えて居られる方も多いだろう。

小さん師は、人間国宝となったが、ホールで聴くと、正直なところ、他の演者よりも精彩を欠いていたように思う。もう、お歳なので声も聞こえ辛かった。

けれど、池袋演芸場で、1番前で聴くと、その上手さが良く分かる、あの間に、声に痺れるのだ。いや、池袋なら1番後ろでも分かったであろう(マイクなんかありません)。

私の、すぐ目の前に、手を伸ばせば届きそうな距離で、小さん師匠が落語をしている。

志ん朝も、小三治も、扇橋も、円蔵も、円窓も、円弥も、円菊も私の目の前にいた、みんなすごかった。

あんな贅沢な空間は、他になかった。

昔の池袋演芸場で、私は落語というものを学んだのだ。

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