「カラマーゾフの兄弟」の主人公

「カラマーゾフの兄弟」を再読しながら考えたことを、少しまとめておきたいと思います。

「カラマーゾフの兄弟」は、ドストエフスキーの最後の作品。
これまでに書かれてきたドストエフスキーの世界観や、多彩なキャラクター性、物語の密度の高さや展開の激しさなど、パワーの凝縮度がめちゃくちゃ高い作品。
やっぱり「カラマーゾフの兄弟」すごい!
と、改めて読んで思いました。
特に人物のアクの強さがすごい。だけでなく、めちゃくちゃ登場人物が多い。ネットで検索してみたら人物相関図が出てくるので見てほしいのだけれど、これだけたくさんの人物を描きながら、手抜きが見られない。

作品の全体について語る、というよりも、主人公のアレクセイ・ヒョードロウィチ(作中では親しい人物からアリョーシャと呼ばれる)について書きたい。

10年前に初読した時、正直、アリョーシャの魅力が分からなかった。
たしかに良いやつなんだけど、他のキャラが濃すぎるし、そいつらの話は面白いし、アリョーシャって、話を聞いてるだけじゃないか……?
と、言葉にはせずとも思っていた。
続編がドストエフスキーの生きているうちに書かれなかったというので、後編で大活躍する予定だったのかな……。
そう思っていました。

アリョーシャはカラマーゾフ家の三男。
作中では彼を除いた父、長男、次男の三人が愛憎の只中にいる。

長男の婚約者のことを次男が好きだったり、
父と長男が別の女を取り合っていたり、
長男は返済不可能な額の借金を背負い込んでいたり、
まあ、一口に言って地獄である。

アリョーシャだけはその圏外におり、みんなのためになろうと奔走する。
けれども、全く事態は改善されず、石が転がるように、事件がただひたすら続いていく……。
この物語の主人公の魅力は何なのだろう?

もちろん作品では色々に書かれているのだけれど、いま読み直しつつ思ったのは、
「アリョーシャには、この地獄のなかでも、あらゆる人間が心を開いている」ということ。
そして、大なり小なりみんな、
「アリョーシャに本音を言っている」。

上巻を読んでいるだけでも、
父のフョードル、長男のドミートリイ(粗暴だけど人情家)、親友のラキーチン(上昇欲求の強い早耳屋)、カテリーナ(ドミートリイの婚約者、高慢で高潔)、地主の未亡人(好奇心旺盛でちょっと思慮が浅い)、地主の未亡人の娘(足が悪く、アリョーシャに恋をしている)、ドミートリイが飲み屋でぶん殴った役人(卑屈なのにプライドが高く饒舌)、その役人の息子(父親思いの健気なやつ)、地元の中学生などなど、さまざまな人間がアリョーシャに本音をぶちまける。
さらに、高い知性を持つという次男イワンが考えた「大審問官」の話は有名だが、これもアリョーシャに語られたものだ。

アリョーシャは決して、ヒーローではない。
ただひたすら、上に挙げたようなアクの強い奴らの話を聞き続ける。そして、そいつらがなんとか救われるようにがんばる。けれども、あまり効果はないように見える。
しかし、読み直して思った。
いやいや、自分は、効果や解決を求めすぎなんじゃないか。
そもそもみんなから話をされているということ事態が、もしかしてすごいことなんじゃないか?
作中人物たちは、アリョーシャには自分の心の内を(あるいは心にもないことを)、喋り続ける。
この、「人物たちが安心して自分をさらけ出せる相手」こそが、ドストエフスキーが最後の小説の主人公に選んだ人物だった。
ここで、考えてみてほしい。
本当に、私たちは、日常生活の中で、本心で人と話しているだろうか?
語っていることはある。
けれども、それは心からの言葉だろうか?
地獄であろうがなかろうが、人は心から何かを語ることによって、自分の思いを日の下にさらすことができる。けれども、人は一人では語れない。
心から話をすることのできる人物がいかに自分にとって大切か。
邪な人間であっても、邪な人間だからこそ、話を聞いてくれる人間のことを、深く愛してしまう。

ドストエフスキー・ワールドのなかで、辛抱強く、人のためを思い、話を聞くアリョーシャは、本当にすごい。
そう思いました。
そして、ありとあらゆる強烈な個性を持つキャラクターを創造してきたドストエフスキーが、最後に主人公に選んだのは、「話を聞く」人間だった。
この事実は、少なくとも自分は、深く心に刻みたいと、そうも思っています。

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