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キリストに遣わされて生きる

キリストに遣わされて生きる

立証に入る前に少しおことわりをさせて頂きます。私は光の光線過敏紫外線で非常に疲れ生活に支障をきたすのでサングラスをかけた状態ですが失礼させて頂きます。
最近、私は自己紹介をするときは自称笑顔が素敵なクリスチャンです。と自己紹介することが増えました。主なるキリストの御名によって私が正しく立証できますように
私は中学三年生の頃から学校で貰った新約聖書を読みました。その頃は、思春期で多感な頃でしたが、ある夜に私は寝ていて突然目が覚めて、部屋の天井付近に神様の様な方が見えました。私は畏れからか私の身体から白い光の様なものが出て行きました。そうすると神様の様な方はお姿を消されました。
私はその頃からメンタル的に感覚過敏傾向いわゆる繊細さんや第六感という言葉で表すことができますが、今もメンタルクリニックに通っています。新約聖書のイエスキリストの山上の説教のみ言葉にある様に、「心の清い人々は幸いであるその人々は神を見る」という一節思い起こしていました。また、ヨハネの黙示録の天上の礼拝の箇所に「碧玉か赤メノウの様な方」という事も書かれています。
私が見た神様の様な方は、赤メノウの様なお顔をされ黒いマントの様なものを着た方でした。
神様の様な方を見たのはその一度だけでした。
おそらくは私は幻を見たのかも知れませんが、私は学生時代美術部の部活をしていて、美術部の部活の先生に神様の様な方をみました。と話すと、「それはどの様な者か描いてみなさい」と言われました。畏れから描くのは途中で止めました。
私は、メンタルクリニックの主治医に私の体験を話しすると「君は天使かね?」と言われました。
また、カトリック教会の神父さんに、神様の様な方を見ました。と話すと、誰にも言わないようにと言われました。このことは聖書が完全であることを証明すると思います。
わたしは16歳の高校生の頃、教会に行きたいと話し、母は田辺にカトリック教会があるので母について行き私だけカトリック教会の要理勉強会に参加しました。アメリカ人の神父さんでした。私がカトリック教会の勉強の最終日には神父さんは天国へ召されていました。
私はどうして良いか分からずに、教会と疎遠になりました。
23歳頃、失恋を機に再びカトリック田辺教会に通いました。カトリック教会の要理の変更点だけ教わり洗礼を授けていただきました。
それから後のことは、教会では様々な背景を持たれた方の集まりであまりプライベートな話しはほとんど出来ませんでした。
また神父さんのお話しによれば、「キリスト教は現世御利益の様な宗教では無い、主の御復活と罪の赦しが証でキリストの時代に起こされた様々な奇跡は救い主だから出来たものだと思います。」と仰いました。私も同感です。また、信仰で叶わなかったことは、そのことについてご自身の人生で考え答えを見つけていく作業が信仰だと思います。
ある日、教会学校のご婦人の先生から、「教会学校手伝って!」とお声かけがあり、私はのこのこ手伝いに行きました。私は先生というよりも子供の遊び相手の役しか出来ていませんでした。むしろ子供の方からそう云う大人もいると気を使ってくれて居たのかも知れません。
私は教会学校で、ある病院のクリスマス会に教会が呼ばれていて、教会学校の子供たちに模造紙に子供達のメッセージやクリスマスツリーの折り紙を貼り付けて二枚の模造紙に貼るお手伝いをさせて頂きました。
私からのメッセージは「みなさんの心のうちに神様が来てくださいますように」という言葉をポスカというマジックペンで書きました。神父さんはその私の言葉を気に入って下さいました。そした、病院で教会の方と賛美の歌を歌い模造紙を公開しました。
そして、宇治市の御蔵山にある、カルメル会修道院の青年のための黙想会に二~三回ほど参加させて頂きました。因みにプロテスタント教会の信者さんも未信者の方もいらっしゃいました。その時は、放蕩息子の例え話しがテーマでした。神父さんが出したお題の一部は、放蕩息子はどこに行ったのでしょう?という問いがテーマでした。私は散々考えましたが、「どこと云う場所では無く父の知らない所に行き散々好き勝手なことをしたのだと思います」と返事して、実はそれは正解だったそうです。
初めてのカルメル会修道院での青年のための黙想会では、丁度、今のカトリック京都司教区の司教さんの叙階式に参加させて頂きました。
二千年の大聖年には深草の聖母学院小学校だったと思いますが、京都南部の教区合同のイヴェントの様なものがあり参加させて頂きました。終わりに何か免罪符?というのか免償が頂けると聴きしたが、私はそのような免償を買った覚えも無くお札の様なものはありません。
そして、私はカトリック田辺教会の主任の司祭に「修道士になりたいです」と話しました。そうすると修道院では病気のお世話はできません。と言われ、しばらくしてから、神父さんは「教会で頑張るよりもお仕事の方を頑張って下さい」と言われました。
私は教会から見放された様に思いました。そして、放蕩息子の様に様々な躓きとなることをして背教の危機も経験しました。その頃はちょうど宇治市の黄檗で一人暮らしをしており、カルメル会修道院へは自転車で行ける距離ぐらいの場所に住んでいました。電車で一駅ぐらいでした。
カトリック教会の修道院ではほぼ毎朝のようにミサ礼拝が行われていました。地球上のどこかで必ずミサ礼拝が行われていると呼べると思います。
修道院のミサ礼拝に時々行き礼拝をしました。
両親の介護もあり約40代過ぎに再び自宅へ帰りました。
城陽教会の礼拝に参加させていただいた極初期の頃、丁度、修学院一日アシュラムに参加させて頂きました。その時の分かち合いで、「家造りの捨てた石が隅の親石となったこれは神の技で人の目には不思議なこと」という、御言葉の箇所を分かちあいました。これはイエス様のことだと思いましたが、私のことでもあると思いました。私は心の病があり世間的に捨てられたと思いましたが、神様は隅の親石のように大切にして下さいました。と分かち合いました。キリストのみ言葉にはたとえ話しが多いですが、それは、おそらく私たちが人生の様々な場面で問い続け答えを探すためにそうされたのだと思います。探せそうすれば見つかる。
教会が私を見放したというのは私の思い込みで、私は教会やキリストから社会に対して遣わされた存在がほんとうのキリストの弟子になる事だと思いました。
こうして私はキリストの教えに従うことになりました。
私の好きな聖句は、互いに愛し合いなさいこれに勝る掟はないです。ありがとうございました。
最後に一言祈ります。
主なるイエス様のみ名により神様が私の心を全て知っておられるので、私の立証が偽りでないのを全てご存じです。私が正しく立証できたと信じて主なるイエス様のみ名を呼びます アーメン

文責 本田 建也 2024年6月30日 日曜日


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