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『長崎偉人伝 永井隆』出版後に集まった情報について

『長崎偉人伝 永井隆』出版後に集まった情報について



2017年に取材と執筆を重ね、2018年夏に出版した『長崎偉人伝 永井隆』(長崎文献社)。出版以後に著者に情報が集まり、分かってきたことがあるので、記録として残しておきたいと思う。

2019年、ある被爆者の女性の被爆体験を聞いた際に、永井隆博士と家族ぐるみの交流があったということで、拝見したのが永井博士から贈られたという博士自筆の書だった。

これが何と読むのか分からない。一応たどり着いた手前勝手な答えは「雲影隠士」だった。心は雲影に覆われながらひっそりと生きるという意味なのか。知人に指摘されたのは「雲影悠々」ではないかということ。禅の言葉に「雲悠々水潺々」(くもゆうゆう みずせんせん)があるそうだ。夏空の雲は悠々と浮かんで動かないけれど谷川の水は絶えることなくさらさらと流れるという意味らしい。雲のように心なく自在に、水のように形なく自由に、という「静と動」の生き様をあらわす言葉でもある。


岡信子さん

次に、2021年(令和3年)の長崎平和祈念式典「平和への誓い」代表者岡信子さんと被爆体験記の執筆補助事業(長崎原爆死没者追悼平和祈念館)を通して、手紙や電話などで交流が続き、知り得た岡さんと永井隆夫妻とのエピソードを紹介する。

長崎純心高等女学校時代に岡さんは永井隆博士の妻緑さんから家庭科の授業を受けていた。永井隆博士の姿も学校で時々見かけたそうで、博士から教練の授業を受けたという先輩もいたそうだ。

弓道場での出来事
女学校時代、岡さんは弓道部に所属していた。ある日岡さんがひとりで稽古していると、永井博士が弓道場にやって来て「ぼくもやりたい」と話しかけたという。そのとき岡さんは(博士を初心者だと思い込み)「弓道とは弓道精神を分かって引くのと分からずに引くのとでは違います」と毅然として答えたそうだが、永井博士は「精神が分かればどう引けるのか?」と逆に質問を返してきたという。そのとき岡さんは永井博士が松江高校時代に弓道部に所属していたことを知らず、今思うと失礼なことを言ったと、鳥肌が立つくらい後悔しているということだった。

出征前夜に永井博士が緑さんと「重ねた唇」について
永井隆博士は出征前夜、下宿先の娘森山緑さん(後に妻となる)から出征祝いを受け、手編みの上着をもらい、思わず感情が高まり緑さんの手を強く引き唇を重ねる。このエピソードは博士の自伝的小説『亡びるものを』に記されているのだが、岡さん達女生徒は、緑さんから受けた家庭科の授業の合間にその出来事を直接聞いたことがあったそうだ。私宛の手紙で岡さんは「その時は唇を重ねるなど分からなかったけれど、永井先生もそんな青春がおありだったのですね。戦争の中でもほんのひととき若き女性を思う気持ちがあった。戦場へ行く先生にとって“重ねた唇”を大事なお守りとして立たれたことでしょう」と感想を記している。

最後は、長い間謎だった永井隆が長崎医科大学を選んだ理由が判明したこと。

当時、周囲の誰もが東京の有名医大に進学するものと思っていたが、永井隆は長崎医科大学を志望した。これまで本人が理由を記述したものが見つかっていなかったので、口伝も含めその理由を推測した諸説が存在していた。


ところが、長崎市永井隆記念館の永井徳三郎館長(永井隆博士の孫)から送られてきた長崎如己の会会報『如己堂』號外(令和5年8月1日発行)に、その理由が記された永井隆博士自身の以下の自筆原稿が掲載された。

《大学へ進むに当って私は長崎を選んだ。雪国に育った者は南の国へ移りたがるものだが、そのころはキリシタンもの、南蛮もの、紅毛ものと呼ばれる、長崎についての随筆や研究が盛んで、図書館でも人気のある、しゃれた本だったから、いきおい私も興味をもって読んだので、おのずから長崎にあこがれる気が起ったのであろう。それに父が書生時代を過ごしたのが佐賀だったし、検定試験の前期を受けたのが長崎だったので、肥前の国の美しさを父はたびたび私に語った。それやこれやで長崎に来たのだったが、まさか今日のような身の上になるとは夢にも思わなかった。》

やはり永井博士にとって当時の長崎は憧れの地だったようだ。それから学生時代に、鳴滝から浦上に下宿を移す際に、森山家を選んだのは、長崎医科大学の丘から北を見渡し直感的に最初に目についた家に押しかけて決めたからだそうだ。永井博士は《「あの家だ。」と私は決めた。それが私の人生行路のきまった瞬間だった。》と記している。



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