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長崎くんちと丸山町と私の「復活」

長崎くんちと丸山町と私の「復活」

仕事中に小脳梗塞で倒れ、入院したのは平成16(2004)年9月のことだった。幸い小脳の出血だけで、身体の麻痺など表面的な後遺症は残らなかった。

だが、約2週間で退院したものの、頭痛と吐き気とめまいには苦しめられた。仕事に復帰してもいいと担当医に言われてはいたが、頭が重く、ボーッとして、ふらつき、とてもすぐに仕事復帰という訳にはいかなかった。

そういう症状が半年以上続いた。それでも仕事を再開しないと収入はゼロ。少しずつ身体を慣らしながら仕事を始めることにした。フリーランスの辛いところだ。パッと見は健常者そのものなので、この苦しみは当事者でなければ分からないだろう。

それから2年後の平成18年。当時、丸山町の役員だった山口広助さんから声をかけられ、踊町(本踊)として丸山町が41年ぶりに「復活」する、歴史的な年の写真撮影班として、私は長崎くんちに関わることになった。丸山町にあやかって、ついでに「私の健康状態も完全復活してほしい」との願いも込めての参加のつもりだった。

それまでの長崎くんちは、もっぱら祭り見物専門で、踊町や祭りの運営に関わることはなかった。小屋入り(6月1日)から始まり、さまざまな丸山町の踊町としての行事(10月3日の庭見世、10月4日の人数揃い、10月7〜9日の庭先回りなど)に同行し、「長崎くんち」という祭りを一から学びながら、記録用の写真撮影を続けた。

丸山町の傘鉾
本踊
筆者

当時、一日中踊町の庭先回りに同行して歩き回る体力はなく、途中休憩を入れながら、ごまかしごまかし、撮影した。庭先回りがすべて終わった頃には、祭りの高揚感で気力も満たされ、倒れる以前と同程度の体力までに回復していたように思う。

続く7年後の平成25(2013)年の長崎くんちにも、丸山町の撮影班として参加した。

本番でまく手ぬぐい作りの作業
庭見世
傘鉾
獅子舞
本踊

その7年後の令和元年の長崎くんちの奉納踊は、ご存知の通り、コロナ禍で中止になった。以後、3年間中止が続いた。

実は昨年秋に出島メッセで行われた「大くんち展」で、チンドンかわち家(河内隆太郎)さんによる「くんち紙芝居」が上演されることになったが、なぜかご縁があり、その脚本を私が担当した。紙芝居の内容は、太平洋戦争の戦時下に中止になった踊町の奉納踊が、原爆投下直後に丸山町の本踊で「復活」したことを伝えるものだった。ちなみに、かわち家さんも丸山町とは深い関わりがある。

丸山町の踊町を手伝うかわち家さん
くんち紙芝居
上演するかわち家さん

令和5(2023)年の今年は、4年ぶりに奉納踊が「復活」、丸山町の本踊も参加する。私が撮影班として関わることはもうないと思うが、それでも丸山町の本踊の復活を心から祝い、喜びたいと思う。なぜならば、私自身の健康をも「復活」させたありがたい祭りでもあるのだから。







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